人の人に対する評価には法則がある。
「あの人、仕事はできるけど」「あの人、優しいけど」
この 「けど」 の後に来るのは、その人の欠点と思われる評価。
人の評価は減点法なのである。
大抵のヤツは良いヤツだと判断される。
だが、完璧なヤツなどいないから
たまに垣間見せる欠点が、とても際立つのである。
例えば普段温厚な人が怒ると、それが強烈に感じ
「あの人、物静かだけど、実は怒ると恐いのよ」 となる。
これは別に欠点ではない。
どんなに温厚なヤツでも、我慢できない事だってあって
つい怒ってしまう状況になるのは当然だ。
でも、それをすると、「実は恐い」 という
レッテルが貼られてしまう。
誰だって怒るだろ、みたいな状況で普通に怒っただけなのにな。
ほとんどのヤツは、この減点法をされている。
だが中には加点法で評価されるヤツらがいる。
「けど」 や 「実は」 の後に賛辞をされるヤツら、
それはロクでもないヤツらである。
こいつらは、最初の評価が最低で下がりようがない。
そういうドグラ (どこの方言かわからんがロクデナシの別称)
でも、たまに良い面を見せる事もある。
そういう場合に加点されるのである。
例: 「あの人、殴るけど、優しいとこもあるのよ」
この 「けど」 「実は」 の後の評価は
本来のその人の評価より、絶大な効力を持つ。
「優しいけど、恐い」 の場合
本来のそいつは優しいヤツなのに、「恐い」 に重点が置かれる。
「殴るけど、優しいとこもある」 のは
そいつは殴る蹴るのどうしようもないヤツなのに
「優しいとこもある」 のが重視されるのだ。
この 「けど」 「実は」 に、カラクリがある。
人は何故か、他人が本来の姿を隠していると思い込んでいる。
だから人が普段しない言動をすると
それが本来の姿だと勘違いしてしまうのだ。
ここらへんの心理は、よくわからないのだが
完璧に良い人も、芯から悪い人もいない、という感覚なんだろう。
だから良い人には減点法、悪い人には加点法で評価する。
それを重ねていって、人は皆同じ、と
安心したいのかも知れない。
さて、加点法をされるヤツ代表の私だが
この制度には、とても恩恵を受けている。
飯を作ると驚かれ、掃除をすると感動され
ちょっと笑うと可愛がられ
ごくフツーの事をしているのに、高待遇になるのは
とーてーもーありがたい!!
あげくが 「案外、普通なんだな」 などと言いたれ
「おめえの見る目が初手から大間違いなんだよ!」 と
私に罵倒されるハメになるが、何故か一度加点されると
なかなか減点されないものなのだ。
私の親族連中も、こぞって言っているらしい。
「あの子は変わっているけど、案外ちゃんとやっているようよ」
「あの子は我がままだけど、あれで意外と素直なんだ」
おめえら、何、夢を見たがっているんだ、と突っ込みたいが
精神を平穏に保ちたいがゆえの自己暗示だな、と察し
あえて水面に石を投げ込むような真似はしないようにしている。
叔母も私がニュースに出ないかとドキドキしていたらしいが
最近は安心しているようだし。
私は良いヤツじゃないが、悪いヤツでもない。
いつもこれを言っているのに
何でこんなに最初の評価が最低なのかが、非常にムカつくが
これも長年の友人が指摘してくれて解明したし
(早速忘れてしもうたが、ようするに愛想が悪いだったっけ?)
人の評価ってのは、正しいんだろうな。
あ、これで思い出す度に笑える話があるが
従姉妹の旦那さんが、今は亡き私の父に
「この子はどういう人間だと思うかね」 と、聞かれ
汗をかきながら 「と、とても自由でうらやましいです」
と、答えて、父が 「自由???かね?」 と、なっていた。
その時、目の前にいた私も、己をよく知らない頃だったので
「はあ?」 だったが、今になって思えば
「おめえは良いよな、何ひとつ気を遣わずに生きていて」
という意味だろうが、某大手メーカー営業の人にそう言われると
私じゃなくても、ごもっとも! としか思えないって。
しかし、とうちゃんも酷な質問をするよ。
多分、父親ながら私に不安を感じたんだろうなあ。
欺瞞でも褒めてほしかったんだろうが、それは甘えすぎだぞ。
「悪魔のようなヤツです」 と言われないだけマシっちゅうもんだ。
親にこんな不信感を持たれるとは、私ってば
ダミアン(映画オーメンの主役)並みの扱いだな。
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