私は死刑反対の思想である。
しかしその理由は、 06.6.28 死刑制度反対に書いてあるように、決して人道主義からではなく
むしろ、「義務を果たさない者に権利などない」 という
凶悪犯罪者を人間として見なさない、極悪思想からである。
光市母子殺害事件の弁護団も、死刑反対論者だそうだ。
多分この人たちは、私の感覚とは真逆の信念で
人権に基づいて人命を重んじ、真面目に活動をしているのだろう。
しかし、私がこの事件で一番恐いのは
容疑者ではなく、容疑者の弁護団である。
容疑者は最初の頃、マトモだった。
根拠は、容疑者が書いた手紙である。
その内容は、さすが悪党、というような内容で
「無期になっても数年で出所できる」 など
明らかに将来の計算が出来る能力を感じさせる文章だった。
つまり、責任能力がある、という事だ。
だが今回の審議で言ってる内容は、キ○ガイそのものである。
私は、これは弁護団のせいだと思う。
拘置所に入れられた人間は、往々にして精神状態が悪くなるらしい。
これは刑務所の場合にも起こりえる事らしく
精神科医や刑務官の書いた記事や本を読むと、よく出てくる。
好きで引きこもっているヤツでも、精神がおかしくなっていくのに
強制で閉じ込められたら、そうなるのも無理はない。
元々そういう資質を持ったヤツなら、完全に狂うであろう。
某宮崎など、その顕著な例である。
成人していない容疑者が、こういう環境に置かれたなら
精神状態に異常をきたす可能性は大いにありえる。
弁護団も職業柄、これを熟知していると思われる。
本来なら、容疑者の精神状態に気を配るべきである。
しかし、この容疑者は死刑になるかもしれない。
それを何としてでも止めたいので
責任能力なし、という事にしたいのだ。
今回のキ○ガイ丸出しの証言は
弁護団との入念な打ち合わせの元に行なわれているのだろうが
果たして、“用意されていたセリフ” を
審議の場で流暢に訴えられるのか?
詰まったり、つじつまが合わなかったり、動揺したり
演技だとバレたら、すべて水の泡になる。
天性のウソつきや、切羽詰った人間なら可能かもしれない。
だが全員がプロである場で、嘘を突き通せる可能性より
容疑者が本当にそう思い込んでいる、と見た方が自然な気がする。
弁護士たちは、「いや違う、君は本当はこう考えたはずだ」 とか
容疑者の心を誘導していったと思う。
閉じ込められ、接見する相手に毎回毎回こう言われたら
本当に自分がそう思ったと、脳内で置き換えるようになる。
冤罪事件の取調べでも、こういう心理が働くように。
きっと弁護団はわかってやってるのだ。
容疑者が日々狂っていくのを。
「母親の自殺と、自分の犯行は関係ない」 と、1審2審で断言した
容疑者のささやかなプライドまでもを砕くほど
洗脳しているという事を。
この弁護団にとっては、死刑 = 人権侵害 であって
容疑者の状態がどうあれ、命さえ助かればいいのだろう。
狂ったままで生きるのが、人間にとって良いのか悪いのか
それは “弁護士” の考える仕事ではない。
一時的な錯乱で、環境が変われば治る可能性もあるのだからな。
死刑の可能性を潰し、更に責任に問えないとするのが
弁護士としては成功なのだ。
これはいつもの、私の勝手な推測である。
でも、どうしても私にはこう見える。
これが当たっていても、容疑者に同情はしない。
どう操られようが、利用されようが、自業自得だろう。
だけど弁護団には、激しい怒りと嫌悪感を感じる。
変な言い方だが、法を犯していない共犯にしか思えないぞ。
こんな弁護がまかり通っていいのか、と、遺族が言っていたが
これは弁護などではない。 思想活動だ。
気色が悪い。
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