人生に失望するタイプって
2つの考えが軸になっている場合が多い気がする。
ひとつは、評価を求める。
もうひとつは、他人と自分を比べる。
この2つは、決して悪い考えではなく
むしろ向上心を作る要素にもなる、有効な “意欲” である。
では何故この2つが、挫折の原因になりうるのか。
ひとことで言ってしまえば、「望むだけ」 だからだ。
この2つの “希望” がはらんでいる危険性に目を向ける事もせず
自分がちょっと何かすりゃ、他人から賞賛を浴び
常に一目置かれる立場になりたいと願っているだけの態度で
それが叶うわけもねえのに。
てか、実際にこんな立場のヤツは、宗教の指導者ぐらいしかいねえよ。
あっ、だから宗教にハマるヤツが多いんか?
そういや、教祖、確かに一度なってみてえよな。
こんな極端な例を出さずとも、人は皆
自分が思っているよりも、ほんのちょっと上の評価を欲する。
だが考えてみてほしい。
おめえは他人を褒めて、それを相手に伝えてるか?
「おまえは良いよな~、頭が良くて」 みたいな
ヒガミ混じりのグチ風味じゃなくて、純粋な賞賛。
してねえだろ、思っても滅多にしねえだろ。
自分がしねえ事を、何で他人に求めるかなあ。
評価ってのは、自分の知らないところで下されるものである。
そしてそれは、良い評価にしろ悪い評価にしろ、大抵が図星を突いている。
そんなはずじゃない、というような意外な評価だったとしても
他人は自分の知らない自分をも見抜いていたりするもんだ。
ここで素直に我が身を振り返る事が出来るかどうかが
そいつの “質” になるのである。
簡単な方に流れるのも良いけど、どっちに行こうが
自分のした事の責任は、決して消えずに自分に付きまとう。
「違う」「皆わかっちゃいない」 と、拒否するのが
果たしてラクで簡単な道なのかも怪しいな。
挫折というのは希望と対に語られるが
挫折がイヤなら希望を持たない、なら済むかというと、そうでもない。
人間には心という、やっかいなものがあり
それが傷付くと、大なり小なり挫折感を味わうからである。
そもそも、何をもって “挫折” と定義するかは個人差で
挫折のハードルが低いヤツは、自己愛が強い傾向にあると思う。
愛するものは、つまらないものであってはならないので
よって自然と自己評価も高くなる。
(書いてて、ふと思ったんだが
ヴェルタースオリジナルキャンディー だっけ?
あのCMって、教育に悪くねえ?
“特別な存在” って、ものすげえ危ういキーワードだよなあ。)
傷付く = 挫折、優れている = 愛される
こういう制約を自分の中で、わざわざ組み立てるのは
自滅へのカウントダウンを始めるのと一緒である。
自分の望む評価を得るための、努力と改革を惜しむのなら
分をわきまえる潔さを身に付けるべきである。
挫折を自己製造する必要は、どこにもないのだから。
自分の “言い分” とやらを、後生大事に育てた結果
他人を傷つける、という方向に走ってほしくない、と切に願う。
「他人と自分を比べる」 については、またその内にでも。
08.8.26 人と比べる ← ちゃんとアップしたぞー。
コメントを残す