人間誰しも、迷いの中に生きている。
自分が悪いんじゃないか、自分がおかしいんじゃないか
どんなに正しい事をしているつもりでいても
ちょっとの予想外で、途端にそう迷い始める。
ひとつの事を最初から最後まで、迷いなく遂行できる機会など
人生にそう何度もあるものではない。
そういう経験を重ねると、長い人生など迷って当然だと思えてくる。
期間限定の事ですら、あっち行ったりこっち行ったり
心がグラグラ揺れ動くのに、80年 (平均) もの歳月の中
自分が何のために存在しているのか、とか迷うのは
ごく普通の過程のひとつでしかない、とわかってくる。
迷うのが、自然。
しかし迷っている人は、常に孤独感をも持ち合わせている。
自分以外の人々は、ちゃんと地に足を付け
目的と信念を持って生きていっているような気がしてならないのか
あるいは、何も考えずにダラダラと生きているように見えるのか
他人と自分を見比べたら、このどちらかの感覚を持つのだが
いずれにしても、自分は他の人と違うんじゃないか
という疑問は、疎外感に繋がる。
ところが、大なり小なり人は皆、多種多様な事で迷うものであって
今この瞬間も、迷宮入りするヤツが世界のどっかに必ずいて
自分が特殊どころか、実はその他大勢の中の一員なわけだ。
人は迷う時は、全身の窓や扉を閉めて回る。
迷っている時は弱っている時だから
そこに外敵が侵入してきたら、ひとたまりもなく
ちょっとの刺激で心が激しく傷付くため、自己防衛の本能が働くんだな。
つまり孤独だから迷うのではなく、迷うから孤独を感じるのである。
ここを間違えて、自分をいらん方向にまで追い詰めないようにな。
この、誰でも陥る迷いに堕ちない人がいる。
今までに数人見た事があるが、実にちゅうちょがない。
共通点としては、物の考え方の自己基準が絶対的なのだ。
何かいっちょ支障が起こった時には、他人事で他者を責める側に回る。
こういう人を見ると、義務教育時代の理不尽な “連帯責任” とやらも
やっぱり必要な倫理教育だったんだな、と思う。
人生には、自己嫌悪や自省というのは絶対に必要である。
迷いという心のブレがないのは、一見ラクそうに見えるけど
しなりのなくなった竹は、折れたら最後。
ものすげえ一か八かの、そんなヒヤヒヤもんの大バクチを
人生を賭けてやりたくはない。
特に、私的には絶対に負ける気がする。
だけど人間、必ずどこか弱い部分はあるもので
一見ブレがない人でも、自分が見ている面だけでブレていないのであって
それが際立つために、裏面のブレが見えにくいのであろう。
やはり、“人は皆、平等” の法則は不動である。
結論として、人生の迷いはとても大事なもの。
歳を取って、経験を積んだからか、はたまたボケたせいなのか
以前よりブレなくなったら、途端に自分の劣化速度が大幅に上がったので
迷いの感覚とは、得たい人のための最良の策だったんだな、と
つくづく実感させられている真っ最中だからである。
人間、迷えなくなったら、後は転げ落ちるだけだぜ。
迷っている自分を、誇って良い。
確かに進んでいるという証しだから。
さて、迷い探しの旅にでも出るとするか。
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