実際は不幸じゃないのに、不幸感が漂う人っている。
長年それは何故なんだろう? と、気に掛かっていたけど
最近になってやっと、かなり近い答が見つかったかも知れない。
親や配偶者に大事にされない、と嘆く人々がいて
話を聞いている側からしたら、そうでもないように思える場合がある。
ビシッとアイロンの利いたハンカチを持っていたり
靴がピカピカに磨いてあったり
栄養のバランスが取れたお弁当を持ってきていたり
それは自分でやってるのか訊くと、やってもらっていると答える。
それが親 (妻) の仕事だから、と。
こういう事を言う人々には、共通点がある。
性格は悪くはない、と言うか、むしろ良いのに
ひねくれた部分があり、不満が多く、プライドが高い。
店員さんなど、仕事で接してくれる人に高飛車な態度を示すのも
ほぼ、このタイプに見える。
こういう人々は、大事にされている事に気付かない。
自分の思う “大事にされ方” じゃないと、納得しないのだ。
どうも、無条件奉仕の+αがないと、大事にされてるとは思わないようで
「仕事だから」「家族だから」 と、勝手な条件付けをして
別人格の人の親切のハードルを上げている。
人の親切を親切だと受け止めず、「当然」 みたいな態度を取られたら
誰でもそいつに対して、優しくし甲斐がなくなり
結局、最後には大事にされていない状態に、本当になってしまうだろう。
自分で自分を、“大事にされない人” にしてしまっているのだ。
幸せになれる状況のひとつとして、「人に大事にされる」 がある。
誰かに大事にされている人を、人は無下に扱えないものである。
他人の宝物を壊せないのと一緒。
しかし、上記の因果応報と違って
周囲がドグラで、実際に大事にされていない人もいる。
そういう環境にいる人はどうすれば良いのか?
一番手っ取り早い方法は、お金を利用する事。
高い装飾品を身にまとい高級店に出入りすれば、誰でも大事にされる。
その一時的な厚遇を、自信として自分の内に積み重ねれば良いのだ。
だけどこの方法だけでは、完璧ではない。
何故ならば、大抵の人は 対人仕様になっているからだ。
お金の力で大事にされても、何か物を大事にしていても、しょせんは物。
人に相対する時とは、充実感が違う。
だから幸せになりたいのなら、人を大事にする事。
これに尽きると思っている。
上記の因果応報の逆バージョンをいけば良い。
“情は人のためならず” と言うけど、これは真理である。
親でも友人でも店員さんでも、誰かを大事にしていると
それは必ず、自分に返ってくる。
相手からの反応が特別になくても
“誰かを大事にしている自分” という自己満足が
自分が豊かになった錯覚を起こし、気持ちに余裕が出来、自信に繋がる。
これも、形を変えて自分に返ってきているのと同じ。
ようするに、“対・人” で上手くいかないと感じる人は
相手の反応だけを、“結果” として追う事に敗因があるんだと思う。
相手の気持ちを無視した押し付けは論外だけど
迷惑を掛けてなければ、密かに自己満足をしてれば良いのだ。
ただし、大事にする相手は選ばないと
その人のためにならなかったり、カモにされたりする可能性もあるんで
ある種の覚悟も必要になってくる場合もある。
物事って、とことん巡り巡るし。
良い相手を選別できて、良い関係を保つのが理想だけど
そんな環境にいられるのなら、誰も苦労はせんわけで
それがしにくいから、自己満足力がカギになってくるんだと思う。
さて、ここまで書いてきて、幸せ関係の問題のひとつに
“自己満足の基準の高さ” みたいな項目がある事が判明。
私はプライドが低いので、すげえ難解なジャンルだが
これもボチボチ考えていこうと思っている。
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