人生では何度か、「何もかもがおしまいだ・・・」 と思う事が起きる。
未来も運も財産も自分の痕跡も、生きる意味すらないように思える
絶望感に襲われた時って、生まれてきた意味を問うてしまう。
こういう時はどうするか。
私の場合は、何ひとつ変えずに普通の生活をする。
飯を作って食って働いてブログを書いて映画を観て寝る。
何故ならば、うろたえて落ち込むのは、自分の傷を確認する行為だからだ。
本当の傷だって、ジッと観察してても治るのが見えないだろ。
ましてや、大丈夫かな、と何度もガーゼを外してみたり
ちょっといじくってたりしたら、逆に悪化してしまう。
傷は、手当てをして放置してたら、いつの間にかふさがってた
という治り方をするのだ。
トラブルに対しても、自分の出来る事を終えたら
後は放置して、気にしない方が良い。
気になるのは当然だけど、思い出す度に落ち込んだり
自分が哀れに思えてきたりするだけだ。
そうやって自分で蒸し返していたら
自分の抱えているトラブルが、えれえ重大な事に変身していくんだ。
気にしなければ、それは単なる些細な事で固定されるのに
動揺すればするほど、自分の中でどんどん育っていく。
よく人が言う慰めの言葉としての 「忘れなさい」 は
本当に記憶から消し去れ、って意味ではないと思う。
問題点ばかりに注視していたら
それはいつまで経っても新鮮なまま、脳内で再生されてしまうので
エンドレスリバースはやめれ、って事じゃないのかな。
“過去” にするには、一旦棚に放置しとく時間が必要だからだ。
熟成期間を作れて、そこで初めて “乗り越えた” になる気がするから
それを願って、意地でも普通の生活をするのである。
物事の幸不幸を決めるのは自分。
どっから見ても最悪な事でも、どっかに善の要素は必ずある。
それを探し出せるかどうかが、プラス思考のコツである。
そんで、人から 「大変ねー」 って言われるような事でも
自分さえ苦に思っていなければ、それは大変ではない。
この仕組みがわかっているから
私は大変な時には、普通以上に普通の生活をする。
“自分に出来る事”、これは対処だけを指すのではなく
普段自分がやってる事も入るんだ。
役に立つばっかりが “出来る事” ではなく
自分の生活のための、何でもない事。
掃除だの洗濯だの、雑誌を読むとかゲームをするとか。
人生、時にはこうやって小さく狭く考える必要もある。
実際これはとても難しい事で、普通に暮らしていても
背後にトラブルが居座ってるのがわかって
神経がものすごく張り詰めてしまう。
もうほんと、自分の精神力がいつまで持つのかがわからない。
私の人生に自殺という選択肢はなく
追い詰められたら暴れる方に回る性格だけど
今までがそうでも、何かが狂う可能性もゼロじゃないよな。
もし万が一、どうにかなっちゃったとしても
人生を終える30分前までは、普通にしていたい。
最期までの日々を、全部落ち込みで過ごしたくはないんだ。
一瞬だけトチ狂っちゃった、という終わり方をしないと
自分の人生すべてがダメだった、という結論になりそうだから。
それに上手くいけば、忘却が出来るかも知れないしな。
今、私に何か問題が起きているのかっちゅうと、起きとる。
何年も同じ分野で、次から次へと進化してやってきやがる。
短気で猪突な私にしては、不動で耐え忍んでいる方だが
たまにブチッときて、力押しで突進する事もある。
そっちの方が私的には、すっきりと解決するんだけど
人にはそれぞれ考えがあって、それを尊重しなければならないので
あまり私流ばかりをゴリ押ししたらいけない、と思うからこそ
自分を滅する、という向いていない方法も取らざるを得ない。
人間、ひとりで生きているわけではない。
それがありがたい反面、辛い場合も多いよな。
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