私は自画自賛するヤツが大好きだ。
日本人は、謙譲の美徳とやらを持っているので
通常なら自画自賛話は、真に不幸なヤツから以外は
ほんとに内輪だけの “ここだけの話” でしか聞けないのだが
たまに、満遍なく何様? な痛快なヤツに出会う事がある。
“たまに” とか書いてるが、よく考えると
私の周囲には、この系統の人種が多い。
やはり類は友を呼びまくっとるのか? とも思うが
私が遠慮なくロクでもねえ事を言うので
つられて本性を出す場合が多いのかも知れない。
ここで、自画自賛のマイルールをとうとうと述べるが
大切なのは、自画自賛は自慢とは違う、という事。
自慢は、人に羨ましがられたり賛同されたりしたい、という
対・人 を強く意識して行なわれる。
これは私から言わせれば、愚かな行為である。
他人と自分を比べてしまうのは、しょうがない事で
自分の確立に、他人の存在はなくてはならないものである。
しかし、自分の思う自分の価値を、他人に同意させようなど
とんだハタ迷惑な話でしかない。
自画自賛とは、自分で勝手に設定して
ただの情報伝達として、自分を褒める言葉を出すだけの事。
自分が生きる上での支えみたいなものなので
そこに他人の許可は必要としない。
私の自賛に文句があるなら言ってみい! ・・・己を見直すから
の気合いで、「私はこうだから」 と言っているのだから
聞いてる側は、はいはい、と流してくれれば、ありがたい。
単にマイワールド炸裂なだけだが
自画自賛をさりげなく、またはコミカルにするヤツとは
話していて、とても楽しい。
たとえそれが大いなる勘違いであったとしても
自分の美意識を定めて頑張ってる、という前向きな印象で
清々しい気分になれる。
そういう私も、実は自分に自信がない。
私が本気で自賛しているのは、ナイスバディのみで
天才だの気品あふれるだのの他の部分は、正直ギャグである。
そういう項目で笑いを取る必然性はまったくないんだが
やはり基本が何様なので、単なる個性だと認識してもらいたい。
自信はないが、自信がないヤツの気持ちはわからん。
自信がない事で悩んだ事がないからである。
皆、自信がない事で悩んではいないんだろう?
本当は、その自信がない部分を解決しようと
努力するのが面倒くさくて悩むんだろう?
面倒くさい、ってのは、私固有の感覚で
他の人の場合は、「やっても出来ない」 とかかも知れないけど
だったら、「やっても出来ないので自信がない」 の
「自信がない」 の部分に焦点を当てるのは、違う気がする。
問題は、「出来ない」 のとこだけじゃないか?
色んな事が上手くいかなくて、総合で自信がなくなってる場合も
全部バラけさせて、いっちょいっちょ別項目として考えるべきだと思う。
こういう、ちょっとした考え方の方向性が
荷物の持ちすぎを助長させている可能性もあるものだし。
「どうせ自分なんて」「でも」 とばかり言ってるヤツは
自分の容量を大きく見誤って、自らにダメ出しをしているように見える。
私的には、そっちの方が 「何様?」 だと思う。
スポンジが不味いケーキで、デカさがホール大だったら
はさんである苺が美味かろうと、屁の突っ張りにもならんだろ。
それがショート型に切ってあったら、苺の美味さで多少は緩和される。
自分をデカく見積もって、トータルで不味いと嘆くより
ショート大しかない、と最初から思っていれば
点々とはさまってる美味い苺の存在に救われる、ってもんだ。
自画自賛とは、そういうものなのだ。
自画自賛、しようぜ。
冗談で言ってるだけでも、自分の出す言葉が耳から入って
何となく自己暗示に掛かっていくもので、ひとつ良いとこがあると気付くと
芋づる式に自信が持てるようになる事もあるんだぜ。
まあ、あまり人に自画自賛を言ってると、人格を疑われる事もあるが
人の評価より、自分の気持ちの持ちようを大切にしてみたらどうだ?
評価なんて、後からついてくるものだし。
と言いつつ、いまだに評価がついてこない私としては
今後の人生をどう修正するか、の瀬戸際かも知れんがな。
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