オリンピックは参加する事に意義があるそうだが
この言葉は選手への励ましの言葉ではない。
参加する事に意義を見い出されるのは、選手個人ではなく国だからだ。
こんな、政治も慰めもゴッチャのキレイ事と違って
個人への励ましの言葉を、私は持っている。
努力は、する事に意義がある。
努力、私の大っ嫌いなこの単語、
しろと言われたら、自分が如何に既にやってるか
自己弁護を必死でまくしたてたくなるほど、言われたくないこの単語!
しかし私はこの単語の真の価値を知っている。
私の嫌悪する、避けて通りたい関わりたくない聞きたくもない
このうっとうしい単語は、人生において最も尊く美しい作業なのだ。
努力は、何かを成し遂げようとする時にするものではない。
何かを成し遂げようという、心そのものなのだ。
こうしたいああなりたい、という向上心
それをしようと決心した勇気、それに向かって進む持続性
努力には、人間の立派な部分がてんこ盛りである。
声を大にして言いたいのは、努力には結果を求めるな、という事だ。
努力して思い通りの結果が出れば、それは目出度いが
出来なくても、努力というちゃんと意味のある事をやっているんだから
結果よりも、その過程の方が大事だと思うんだ。
逆に言えば、結果を重視するのなら努力は関係ない。
努力しようがいい加減にしようが、結果が出れば問題ないはず。
しかし世の人々は、“努力をして結果を出す” という高望みをする。
ヘラヘラ遊び半分で見事な仕事をされるのは、決して歓迎されない。
汗して苦悩して涙にむせびながら、出来上がったものなら
それがイマイチでも、ありがたがられる。
例えると、ヘタすると押入れにもホイホイ生えそうなシメジより
豚や犬がゴフゴフ探したトリュフの方が高価である。
諸々の諸経費を入れても、シメジの方が美味いのに、である。
(キノコの種類や栽培法に無知な安物食いの言う事なので
サラリと流してくれれば、ありがたい。)
私は努力と結果をはっきり分けて考えている。
私が 「努力せえ」 と言う時は、“姿勢を改めろ” の意であり
結果など、どうでも良いのである。
と言うか、達成を困難にしている原因が、態度にある場合も多いので
それを改めるよう心掛けていれば、結果はその内に付いてくる。
こういう状況の時は、かなりの長期戦になるので
結果など求めてたらやっとられんだろう。
結果を求めるのであれば、「努力などせんでも良いから結果を出せ」
と言うので、ものすごくわかりやすいと思うのだが
それでも “努力” を絡めてくるヤツもいて
それを認めないと鬼のように思われるんで、ほんとやりにくい。
うーん・・・、客観的に書いているつもりなのに
何やら自己弁護をつづっているように思えるのは
自分がいかにダメかを自覚している証拠なんだろうか?
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