いきなりブログの書き主として、無責任極まりない事を言うが
自分の書いた文章は読み直さない。
妙な流行に踊らされていた若い頃の写真を
晩年になって発見するぐらい気恥ずかしく、自己嫌悪に陥るからである。
書いている途中で、こんがらがってこりゃあかん! となった時は
さすがに推敲するけど、それ以外は書きっ放しの載せっ放しである。
そんで書いた内容は、すぐ忘れる。 翌日には忘れている。
お陰で、同じ事を何度も何度も書いているようだが
これは老人にはありがちな会話術なので
周囲はよっぽどじゃない限り、温かくうなずきながら流してくれるのが
人の道だと信じているから、やらかしてる側としては問題なし。
たまに昔の記事にコメントが寄せられてて
どんな記事を書いたっけ? と、おそるおそる読み返すけど
大抵ドンピシャでロクな内容ではないので、毎度の儀式で落ち込む。
返答態度が土下座デフォになっている事で、それがよくわかるだろ?
それが先日犬の記事を書いた時に、これはよくある感覚なのだが
「どうも前にどっかで同じような事を書いたような・・・」
と、デジャヴに襲われて、珍しくちょっと不安になって
カテゴリー動物の記事を、ついうっかり読み直してしまった。
すると、そこは全部05年に書いた記事だったんだけど
ものすんげえ攻撃性あふれる文章で、我が文ながらビックリこいたよ。
だけど考えてみると、ちょい前までは確かに私は攻撃的な性格だった。
この攻撃性は、アフガンとのバトルで養われたもので
アフガンとの出会う前の私は、おっとりした性格だったはず。
今はと言うと、関西の穏やかな気候で穏やかな人々に囲まれ
実に穏やかな暮らしに、本来の自分を取り戻している。
貧乏で苦しいのは除いて。
関西に来た頃は、自分はキレる年寄りになるんじゃないか、と
ヒヤヒヤしていたが、安らかな老婦人への道が微かに見えてきた。
上手くいけば、このままのんびりと生きていけるであろう。
貧困にあえいでいるのを除けば。
しかしまだ、アフガンバトルの後遺症が抜けていないのか
激しい性格だよね、と言われる事も時々あり、安心は出来ない。
ブログを書く上で、個性といったようなものを重視するのなら
昔のイケイケの方が、色んな意味で面白かったんかも知れんが
世界平和を主体に考えると、このまま好々爺になっていった方が
周囲に迷惑も掛けんで済むので、このまま更に精進して
生き仏を目指そう、と思っている。
長く続けていると、自分の変遷がまざまざと読み取れるが
読み返さないので、何の教訓にもなっていなかった。
せっかく自分の思想の記録があるというのに、実にもったいない話だが
読み返して落ち込む事に、懲りてビビっているので
今後も自分の書いたものは読み返さないであろう。
あれこれもっともらしい言い訳をしているけど、要するに
責任放棄の書きっ放しをするよ、と堂々と宣言してるわけだ。
ブログを続けていられるのも、この態度だからこそかも知れない。
一部の人々には、私の記事は公害のような存在だろうが
私的には脳の整理が出来て、とても助かっているよ。
どうもありがとう。
( ↑ こういうのを、“いけしゃあしゃあ” と言う。)
コメントを残す