自分は何のために生きているんだろう?
この自問自答を、必ず一度はしたと思う。
私もクソ陰気臭え小説を何冊も読んだ時には
こんな疑問が頭にこびりついたよ。
人は何のために産まれてくるのか、何のために生きるのか
だけどケダモノの野生の勘で、この問題には深く立ち入ってはいけない
と察知したんか、単に脳細胞の不足で忘れたんか
この疑問を持ち続ける事はなかった。
バカ、ブラボー!
寿命も残り少なくなってきた今だから、自信を持って言えるが
この類の疑問はな、一般人は持っちゃいけない魔の問答だ。
自分を追い込む呪文なんだ。
そういうのは宗教家や芸術家に任せておけ。
だが最近になって、そこらへんの本当の問題は
この問いにあるんじゃない、と気付いた。
こういう疑問を持つ人間の方にあるのだ。
この呪文を持つ心境になる事に、問題があるのである。
自分は何のために生きているのか?
これを思うヤツ、よく考えてみい。
その答を、本当に “自分” が出したいのか?
違うだろ?
自分が何のために生きているのか、他人に答えてほしいんだよな?
自分がいかに他人にとって重要な存在であるか
その存在を認めているよ、代わりはいないよ、と言ってほしいんだよな?
幼い頃から、周囲の人との違いを認識させられてきた私は
大勢の人の中にいても、常に孤独感があった。
この “違い” とは、よそ者だとか、喋り方がおかしいとか
直球で言われてたので、バカガキだった私にも理解できた事である。
しかもそれは、自分ではどうにも出来ないジャンルだったんで
他人と違う、というのをデメリットとして受け止め
子供の脳みそで、孤独感に変換してしまったんだと思う。
しかしこの孤独グセのお陰で、何のために生きるのかという
迷路に、はまらなかったんだと思う。
と言うか、そこまでの思考力がないせい、ってのが大きいんだが
それもまた結果的には幸運だったと言えよう。
私はただそこにいるだけなのに、周囲があれこれ言うわけで
それは怒られたり文句を言われたりの、罵倒系が主だったんだが
その孤独感と、渋谷のスクランブルの真ん中にひとりで立つ孤独感とは
恐怖が全然違う事に気付いたら、悪口だろうが何だろうが
言われないより全然マシ、と思うようになれた。
一番恐いのは、無視なんだ。
大勢の通行人が行きかう中で、誰も自分を知らない誰も自分に目を留めない
自分がそこにいてもいなくても、まったく関係ない
こんな孤独感は、他にないぞ。
まあ、横断歩道を渡りながら、こんな事を考えるのは
アホウ以外の何者でもないがな。
だけど誰でも、大なり小なりこういう感覚を味わっていて
それが “自分は何の~” という疑問に繋がる。
もちろんそれは、交差点での話ではなく
自分が属する社会の中での、自分の存在感に関してである。
だからあえて言う。
何のために生きているかなんて、考える必要はない。
それは他人に認められたい気持ちの裏返しだから。
そんな疑問を持つ自分は、自己評価が高すぎる事に気付け。
存在なんて、いくらでも作れるものなんだ。
コンビニに行けば客だし、会社に行けば従業員だし
アパートに住めば店子で、雑誌を読めば購読者だ。
そんで、ここにコメントを書けば、私のネット仲間になるのさ。
あ、最後のは冗談だから、非難はやめてくれ。
客だの購読者だの、何だよそれ、と言いたいかも知れんが
売る側としては、おめえひとりを確保するのに
どんだけ四苦八苦してるやら。 ほんと死活問題なんだぞ。
“消費者” って、社会にとって、すんげえ大切なんだ。
もちろん、そういう存在感が欲しいんじゃないのもわかっている。
だけど誰しも、そこにいるだけなんだよ。
どの命も、ただそこにあるだけなんだ。
まるで荒野に立つ一本の木のような
この潔いさりげなさの美しさに気付けたら
生きているだけで、それだけで良い、とも思えてくるんだ。
ま、弱々な心と足りない頭脳の持ち主、その名は私! は
ちょっと辛い事があったら、すぐ死にたくなるけどなー。
(これがまた、その慟哭もすぐ忘れるんで助かっとるが。)
“特別” という言葉に潜む傲慢さを捨てて
自分を “いるだけ” で満足だと、いかに納得させるかが
幸福に過ごす人生のカギだから
この問題には他人を介入させない方が、平穏だと思うぞ。
何のために生きて、なんて、主観のフリをした客観だからな。
誰のためでもなく、自分のために生きればそれで良いんだ。
自分で作りだした記憶がない自分の命なら
受け取ってしまったら、最後まで使い切るしかねえんだよ。
用途を説明されてないんだから、自分にわかるわけがねえだろ。
そう諦めて、あるがままでいれば良い。
私に捧ぐ ううう・・・
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