ブログを書いていると、時々罵倒コメントがつく。
ユルユル基準の私的には、罵りも荒らしもエロサイト広告も
来てくれた記念として、出来る限り残しておきたいのだけど
罵倒用語が入っていると、“風紀に好ましくない” と指摘され
それに納得したので、消すようにしている。
この罵倒コメント、受けるとかなり傷付く。
マジで動悸や目まいがして、手が震えるのだ。
だけど同時に、私も気付かずに
人を傷付ける事を書いているのかも知れない。
現に傷付いたので反論に来たけど、適切な言葉が見つからずに
感情のままに罵ってる場合もあるだろうからだ。
それに、そういう人々はとても親切だと思うんだ。
私の場合、本当にイヤなものは無視をする。
反応、というのは、どんな形でも
そこに愛があろうとなかろうと、相手を成長させるからだ。
嫌いな人に、そんな手助けなどしたくもない。
無視すりゃ済むものを、わざわざ書いてくれる。
その言葉が私の心にどんな傷を付けようと、結局私はそれを糧にしている。
自分でも知らない内に、ちょっとずつ強くなっている事を後で知る。
生きていると、ある日ふと気が付くんだ。
クヨクヨしているだけでも、いつの間にか打たれ強くなってる! と。
どんな反応でも、してくれるだけありがたい、と
本当に孤独になった時にわかる。
年寄りのこういう自分語りは、よく聞いとけよ。
このご時世、いつ何時自分もそうなるかわからんぞ?
だから罵倒コメントも、孤独老人にはしみじみありがたいんだが
私がコメント返しで 「誤解だ」 と訂正してもなお
似たような事を書いてくるのは、それはもう荒らしである。
コメントをするにもマナーがある。
記事を読んで、脊髄反射のごとく思った事を書くのではなく
最低でも、その記事についてる他のコメント
こっちの要望的には同じ種類の記事を読んでから、書いてほしい。
それにここ、プロフィールもあるんだぞ。
このブログは、管理人ぷらちッの協力によって作り上げられた
私のごく個人的な意見の場なので
それに広い公共性と揺るぎない真実を求められるのは、正直辛い。
だがそれは、読む側も心しておくべき暗黙の了解である。
いちいち 「全員がそういうわけではない」 とか、注釈せにゃならんか?
個人の経験上で個人の人生で決め付けがあるのは、しょうがない事。
それを表立って言うからには、反論は覚悟しているけど
「皆が皆そうではない!」 という、わかりきった定型文はいらん。
「私の場合は」 といった、経験談での自分個人の意見を言ってほしい。
これが私がコメントに望む最低のルールだな。
特に地域ネタにこういう反応の傾向が強いけど
そもそも、抽象的な事で感情的に怒ると、より一層評判を落とすものだ。
こんな良い話もあるんだよ、と紹介した方が、好意を持たれる。
私は愛を持って書いてるから、悪口と捉えられるのは
ひとえに私の文章力のなさのせいだろうけど
コメントで訂正したら、それを信じてくれ。
しまいにゃ、何か? 作文がヘタだとブログをやっちゃいかんのか?
という、とんでもない人権主張まで持ち出すぞ。
にしても、同じ文でも、受け取り方は人様々で
私も気をつけて書かないといけないな
・・・・・とは思わない。
どこの村でも、イヤな事を言うヤツはハブられるわけで
私が村八分に遭ってないのは、賛同してくれる人もいるって事で
それならそこで自分の捉え方を見直してみるのが、道徳的に正しい態度だ。
あっっっ!!! これで言うと、私も書き方には注意すべきか!
うわ、すんげえ反省してるよ今ーーーーー。
私の場合、こういう事がよくあって
これがブログを書いていて、得られるもののひとつなんだ。
こんなん、普通は脳内のみでやっとるんかも知れんで
周囲に迷惑をかけて、やっと得る私はバカそのものなのかもで
ほんと申し訳ない事だが、真面目に感謝をしている。
よくわかった。
私も注意しつつ書いて、突っ込まれたら己を省みる。
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