とか言うのでもなく、既にやってる人も多いんかも知れんけど
意外な提案を友人からされた。
老後に互いに夫がいなかったら一緒に暮らそう、と言われたのだ。
その友人の実家、私の実家、関西、と、場所の選択肢もいくつかあって
これは思ってもみなかった提案だ! と、驚いた。
その友人は、結婚していて子供が数人いる (もちろん夫もいる) ので
実現するのかも怪しいのだけど
何より、この私と人生の最期を一緒に過ごしたいという
友人が存在する事にも、ものすごく感動させられた。
正直、きちんと地に根付いた人生ではなく
腐乱死体で発見される結末も、考慮に入れなければならず
深刻な意味じゃなく冷静に、“いつ死んでも良い” と覚悟していたので
この意外な提案には、生きる希望も与えてもらった。
やはり自分以外の人間の存在というのは
とてつもない心の支えになるのだ、と改めて気付かされた。
そこで、ふと考えた。
今は未婚の人々も増えている。
子供がいない夫婦も多い。
そういう人々が老後一緒に暮らす
というビジネスが成り立つのではないだろうか?
老人ホームみたいなんとはまた別の、コミュニティのような場所。
何かこう書くと、姥捨て山とか老人の隠れ里のような陰気臭いイメージだが
そうじゃなく、単なる同世代の共同生活の場。
今のネット世代が老齢化すると、もしかして今後はメル友探しじゃなく
余生のハウスシェアの相手を探すサイトが流行るかも知れない。
こう想像すると、年寄りの未来も案外捨てたものじゃないような気がする。
でもここで懸念されるのが、金銭トラブルだよな。
貯金や保険金を騙し取ろうとする、悪い輩が絶対に現れる。
それでなくとも、遺言状での遺産の受取人の地位狙いとか
見知らぬ他人同士だと、醜い争いが起きるかも知れない。
そこを切り抜ける方法があれば、この老人ハウスシェアは
今後更に肥大するであろう高齢化社会に
希望の光を与える話じゃないだろうか。
こう考えると高齢化社会というのは
もっと大きく範囲を広げて、地区ひとくくりとして
色んな事を考えていかなければいけないのかも知れない。
行政面だけじゃなく、個人の意識面でも
従来通りの、“血統単位” を考え直すべきかも。
って、これじゃ共産主義っぽくなってしまうか。
でも、“共産” ではなく、“共生” というのって
社会が熟成していくにつれ、大事になってくるのかも知れない。
うーん、そういう意味では、共産主義や社会主義って
上手く築けば、理想の国家の形態なんだろうな。
地球政府っつうのも、机上の空論でしかないけど
そういう理想世界が絶対に不可能なのは、人間の業の深さなのかもな。
と、えらく話を広げて、思想に結びつけてしまったが
そうか、思想とか哲学というのは、人間のためにあるものなんだ
と、何となく実感したよ。
今の人間社会は、もう末期に入っているような気がしていたんだが
皆、良かれと思って主張しているんだなあ。
人類、まだまだ捨てたもんじゃないのかも知れない。
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