この言葉の真の意味が、本当にわからん。
自分でも、あまり使ってないんじゃないかと思う。
自意識について、予想してみると
多分、世界の中での自分の存在の確立なんじゃないかと思うが
この時点で既に大間違っていたら
この下全部、誤爆になってしまうんじゃないかと思うが
そういう冒険の旅には出なくても良いんじゃないかと思うが
毎度の綱渡りだし、今更何を守る? って感じじゃないかと思うが
韻を踏めたか?
自意識が自分の確立なら、それは必ず環境が関わってくる。
自分の置かれている境遇と周囲の人々。
その中で、自分と周囲の感覚の落差が大きいほど
自意識は強くなるような気がする。
自然体で生きていられるのなら、自分の確立など考える必要もないからだ。
“考える”“意識する” っちゅうのは
哲学的趣味の持ち主じゃない限り、何かを解決したがっているわけで
大抵の場合、それについて不満を持っているからである。
じゃあ、自意識が強いヤツはどういうタイプか。
ここで大きく関係してくるのが、自己評価だと思う。
自己評価が冷静に客観的に出来るというのは
他人の目を取り入れるのが上手いヤツである。
自意識が低いヤツは、他者の評価と
自分像のバランスを上手く取れているので
自意識を意識する事なく、生きていける。
つまり自己評価が極端に高いか低いか、なヤツが自意識が強い。
自己評価が高いヤツは、自分の不幸不遇を他者のせいにする傾向がある。
自分はちゃんとやってるのに、周囲の見る目がなくて評価されない
と、疑いなく思って、己を甘やかせている。
自己責任感がないので、自業自得すら考えない。
自己評価が低いヤツは、他人の目を気にする神経を持ち
自分を大事にはするけど、自分自身を信用できない。
こう考えていくと、どうも自意識というのは
あまり良い意味ではないようなイメージになってくる。
周囲に対する不平不満が溜まってきた時に、自分の内に目を向け始め
その時に追求するのが、自意識ってやつじゃないだろうか。
しかし、一見、自意識の権化のように思える勘違い系は
唯我独走状態なので、社会まったく眼中なし空間にいて
自意識云々には囚われていないような気がするのだ。
となると、自意識というのは、ある程度の社会性がないと
持つ事すらできないもののような気がする。
この点においては、一概に悪いばかりとも言えないので
度が過ぎるとマズい、という話なのだろう。
まあ、これは何に対しても言えるのだがな。
自分の事で考えてみると、私にはあまり自意識はない。
私は勘違い系に属するからだ。
自分の世界を持っていて、それで満足なのだが
とにかく他人に迷惑を掛けたくない、という気持ちがあるので
社会との穏便な迎合を目指している。
自分の世界は自分の心の中にだけありゃ良いしな。
そして何より、自分にも他人にもあまり期待をしていない。
(もちろん例外はあるが、基本的に大体、って話である。)
これ、えらい投げやりな感覚に思えるだろうが、違うのだ。
人に期待しないでいると、他人のちょっとした厚意に気付けるようになる。
その上、その “意外な厚意” が、とてもありがたく感じる。
自分に期待しないと、自然体でいられる。
やっただけの評価しか貰えないのも当然だと納得できる。
何の問題もなく、逆に良い事だらけである。
私の言う “期待” とは、自分に都合の良い願望を差す。
社会というのは、ギブ&テイクが基本設定だと思う。
これを逸脱したら、失望が結構な高確率でやってくる。
それに懲りたんで、私は期待をしない努力をしているのだ。
そこまで極端に走らなくても良いだろうけど
己をわきまえない期待というのは
多くの場合、周囲にも自分にも害にしかならない。
自意識というのは、実はこの “期待” じゃないかと思うのだ。
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