「不幸なら不幸で良いじゃん。」
10.5.12の記事で何気なく書いて、突っ込まれた意見だが
それから時々考えてきたんだけど、どうやらこれは私の本心である。
元々、幸・不幸ってのがよくわからない。
幸せだと認識している時って、後から思い起こすと
結構な不幸のどん底だったりする場合が多いからだ。
しかし私は今、かなり不幸なんだが
どっから見ても、やっぱり不幸である。
どうも、不幸は自覚できるものだが
幸福は自己判定は出来ないもののような気がする。
うん、色々あるけど結局は幸せだよね、とか
こんなに○○できる私って幸せ とか
突き詰めれば、生きてるだけで幸せ、とかになる。
幸せとは、自分を納得させるための暗示のような存在ではないのか?
私の人生上、幸せだったと言えるのは
自分が幸せかどうか、考える知能がなかった頃である。
良いんか悪いんか、かなりのドバカだったんで
20歳頃までは幸せでいられた。
まあ、その後病気とか色々あって
生きる意味だの、自分の価値だのを確立したい
とかいう、いらん知恵をつけたら
幸せを追い求める人生になってしまった。
“自分探しの旅に” とかいうアホウに
「自分が世界のどこにいるっつんだよ? 鏡を見ろ!」
と、常々罵倒してきたが
そういう自分も、気付けば日常的に
必死こいて幸せ探しをしてきたわけだ。
悪い事に、幸せっちゅうのは探せば見つかるんだよ。
そういうのを1つ見つけては、安心してきたんだ。
「ないものより、あるものを数えろ」 って言うけど
これをしてたら、幸せになんて簡単になれるんだよな。
でも、あるものを数えて見つける幸せは
既に自分が持っていたものの再確認でしかない。
本当に幸せな人は、ないものを数えていると思う。
もっともっと幸せを積み重ねるために。
しかも、無意識に。
これに気付いたら、幸せなんてレゴブロックのような気がしてきた。
いっぱいある家は、そりゃ楽しいだろうが
何個かなくなったって、そう支障があるわけじゃなし
補充もできる。
つまり幸・不幸なんて、無数に存在するものであって
自分はこれ! と決定づけるものじゃないんだ。
たとえ自分が不幸だと感じても
自分のすべてが不幸なのではなく
こことここが問題だけど、こっちは割に幸せじゃねえ?
という判定が、正しい幸・不幸のジャッジだと思う。
こう思ったら、幸・不幸なんてどうでも良くなったんだ。
私の感じる不幸がヌルいものだから、こう言えるのかも知れんけど
何をどの程度感じるか、など、個人の資質だろ。
てか、幸・不幸なんて、基準がないものを題材に
鈍感だと否定されたくないね。
誰が言い出したんか、得体が知れないもののような気がするぞ
“幸・不幸”。
これほど、知らない方が幸せだった単語があるだろうか?
私にはこの単語は、呪詛に思えてならない。
で、終わろうとして、今気付いた! たった今、気付いた!
気付くの遅すぎ新記録!!!
この説には足りないものがあるんだよー。
それは、他 人 。
私は幼い頃から、他の人と協調しなさい、目立ったらダメ、と教わったせいで
どうしても溶け込めない異質さを、自分の中に認識してからは
ずっと孤独とともに生きてきた。
この異質さというのが何なのか、というと
皆は1をたくさん持ってるけど、私には1はなく2が多い、みたいな。
他の人も、2はないけど1と3を多く持ってる、と
それぞれの持ち玉みたいなんがあって
この場では5をいっぱい持ってる方が有利だ、となったら
皆、5を持っているフリをする。
この、持っているフリってのが “協調性”。
持ち玉の多さは、元々の資質と経験値。
いらない玉も、絶対に持てない玉もある。
人生って、そういうものかな、と思っていたから
人と自分を比べる必要性がないんだ。
だから私は、人と自分を比べない。
これ、幸・不幸に、ものすごく関係してくると思う。
幸・不幸は、他人の存在がもたらす場合が、ものすごく多い。
不幸だ、とグチっているヤツって、必ず人と比べてるんだ。
評価: 旭食品
コメント:♪幸せって何だっけ何だっけポンズ醤油のある事さ♪ 関西人に紹介されたポンズ。 これは濃厚で柑橘の味がしっかり出ているタイプ。 値段を見よ、ポンズでは高いだろ? 関西はポンズ好きで、ものすごいこだわりがあるみたいだぞ。 |
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