田舎者だから親切にしてもらえてラッキー、と
私のように、おいしいとこだけ享受して
後は他人事で流せる、という調子の良いヤツ以外には
“田舎者” というのは、悪口に使われる。
もちろん私自身も悪口でこの言葉を使う。
おまえが言うな! の第一人者なわけだ。
私は言われても平気さ。
だって本当にド田舎で生まれ育ったし
私に向けられて言われる “田舎者” の意味は
なまりが取れない、とか、道を覚えないとか
その他、風習の問題ぐらいでしかないからだ。
何を持って、“田舎者” と評されるか。
視野が狭いとか頑固とか、そりゃもう色んな意味合いがあるだろうけど
その全部の根本に鎮座している一番の意味は、これに尽きると思う。
“自分と違う多様性を悪だと決め付けて認めない”
田舎は狭い社会で、人口も少ない。
この中で円滑にやっていくには、大多数の足並みが揃う必要がある。
海に毒薬10mlを流してもダメージは少ないけど
村の井戸に、それを入れられたら即死だからだ。
人口100人の村では、10人荒れ狂ったら戦場になりかねない。
平和を維持するためには、出来る限りの調和が大切になる。
田舎で保守を貫くのは、生活の知恵なのである。
人口10万人の街で、10人ぐらいドグラがいても
多くの人は、普段の生活に影響が少ない。
よって、遠目に見ているだけならいいか、と寛容になり
それを “受け入れられている” と捉えるせいか
ドグラ濃度も薄まるようで、互いが余計に生きやすくなり
多種多様が思い思いに混在できる下地が作られていく。
(“例外” はいつどこにでもある、っちゅう事で。)
このように、その地その地で暮らし方が違うわけだが
“田舎者” が何故発生するか、と言うと
郷に入っても郷に従えないヤツがいるからである。
“都会人は冷たい” という言い分は
田舎の気分で都会に行ったヤツのアテの外れを意味する。
地域によって、“親切” の形は違うのだ。
それが如実に表われるのが、“距離感”。
街の規模で生き方が違うのを、知らないのはしょうがない。
これから学んでいけば良いだけだ。
だが、ここで都会批判をし始めるのが
“田舎者” の称号の第一歩。
田舎ではつちかった “皆こうだから” の価値観の押し付けに
従えない者を容赦なく攻撃する。
だが、こうやって都会で田舎者として生き通すヤツは、まだ骨がある。
(いや、迷惑千万だがな)
自分の故郷に逃げ帰った者は、都会批判を広め
それを確かめもせずに鵜呑みにした人々によって
「都会は冷たい」 という都市伝説が決定されるのである。
群れから離れた場合に容赦ないのは田舎の方なのにな
と思う私は、都会が好きなのだが
よりグローバルな視野を持てた国宝級の今になると
「日本自体が都会じゃねえ?」
という気がするのだ。
いや、これは日本一番! のひいき目抜きにして。
戦後教育の成功により、「外国人全員が日本人より偉い」
という思想を植えつけられた身として
憧れの目で外国人を見ているわけだが
・・・何か、外国人ってアホウが多くねえ・・・?
1ヵ月のバカンスとか、仕事より家族とか
優雅で充実した人生をおくっていて、とても羨ましいんだが
どうも、・・・・・・ 真・ゆとり ・・・・・・・・・・?
もしかして、あの悪名高き “ゆとり教育” は
日本を外国レベルまで落とすための努力だったんか?
とか、映画やドラマを観て思うんだが
これは水戸黄門を観て、「日本人って権威主義」 と思うのと
何ら変わらない早計さかも知れないので、控えよう。
見たくないものでも目に飛び込んでくる環境だと
自分の持っているカードが、全世界共通で使えるものではない
と、イヤでも実感させられる。
それは、幅広い価値観を認められる柔軟さをもたらすが
逆に意見を表に出せない自信のなさ、見て見ぬふり
という欠点にも繋がる。
自分自身の確立と、周囲との兼ね合い
これが出来れば、天下無敵!
評価: ブロッコリー
(2012-08-08) コメント:熊本の人気ゆるキャラ “くまモン” を襲っていた熊、“夕張メロン熊”。 ホラー好きの私の心の琴線に触れて、激しくプッシュ! と言っても、スマホすら持っていない私には、この商品が何に使うものなのかわかってないというオチが。 |
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