伊吹は早朝一番から、丘へと向かうつもりだった。
しかし、朝飯を食べているところに
物見 (ものみ:相手の様子を探る役目) の一報が入った。
龍田陣営の準備が整ったようだ、というのだ。
青ざめた高雄の様子に、伊吹は初めて八島の殿の遅延を知る。
明日にでも開戦になるであろうに、こちらには総大将がいない。
その事で、高雄はここ何日も悩んだであろう。
「すまぬ、俺が側にいなかったばかりに・・・。」
自分を責める伊吹に、高雄が冷たく言う。
「意味がわからぬ。
おまえがいても、大殿の到着は早くはならん。」
「だが・・・」
走って来た乾行が、伊吹にドスンと抱きつく。
「何やってんだよお、いよいよ待ちに待った開戦だぜえ?
具足の準備に人手が足りねえってえから
俺ら、いくさ前も役に立っちゃおうぜえ?」
確かにウジウジ悩むのは後からでも出来る。
今は、今すべき事がある。
「うむ、高雄、いくさが終わったら話そう。」
慌てて武具庫に走る伊吹の後ろをついていく乾行が
振り向いて、笑いながら高雄にヒラヒラと手を振る。
高雄はうなずくと、すぐに背を向けた。
助かったぞ、乾行。
伊吹の馬鹿、放っとくと何でも自分で背負おうとするからな。
蔵に納めておいた槍を抱えながら、それでも伊吹はまだ落ち込んでいた。
俺はいくさ前に女に気を取られるなど
何という馬鹿な事をやっていたんだろう・・・。
「おお、ここに立ててくれ。」
乾行にうながされながら、槍台に槍を立てていく。
「伊吹、おりゃあ、この数日で女を三人抱いたぞ。
ここいらの女は良いねえ、可愛くて情が深い。
もう、惚れちまったよお、くうううううううっ。」
能天気なその言葉に、伊吹は顔をしかめた。
「乾行・・・、おまえ高雄が大変な時に遊んでいて
心苦しくないのか?」
乾行は、あっはっは と笑う。
「高雄は “出来る” から、やってんだよ。
それが高雄の領分さ。
俺らは高雄が望めば力になる、それが役目だ。」
伊吹はハッとさせられた。
自分がいないから高雄が大変だなど、思い上がりも甚だしい。
「おまえも高雄に手伝わされただろ?
俺なんか、女を連れ込もうとした宿の店先に
高雄が仁王立ちしてたんだぜえ。
あいつは必要とあらば、こっちの都合などお構いなしに
引きずり回してくれる奴なんだよ!」
乾行の文句に、伊吹は気が晴れる思いであった。
「うむ、そうだな。
高雄が必要とした時に、俺たちがいれば良いのだ。」
伊吹の表情が明るくなったところで、乾行が探りを入れる。
「伊吹、おまえも女が出来たな?」
否定するにも、乾行は伊吹の胸元をクンクンと嗅いでいる。
「・・・・・・わかった、ちゃんと言うよ。
別に女が出来たわけではないのだ。
ただこれを貰って、俺は紐を渡しただけだ。」
伊吹の胸元から出てきた真っ赤な手拭いを見て、乾行はギョッとした。
金持ちの娘だろう、とは推測していたが
ここいらに、赤染めを手拭いに出来るほどの家があったか?
「どんな女だ?」
乾行の問いに、伊吹は少し視線を落とした。
「さあ・・・。
花のような娘なのだ。
その娘からは、この巾着を貰ってな。
この緑と俺が贈った紐の緑と、ちょっと違うんだ。
気に入って貰えるだろうか?」
いつもはまともな伊吹が、わかりにくい話の展開をする。
しかし水を差したら、黙り込まれるかも知れないので
乾行は頭の中で、状況を組み立てるのに必死になった。
要するに、こいつらは何らかの事情であまり会えずに
物の贈り合いだけ、やってたんだな?
握り締めた緑の巾着を見つめている伊吹の肩をポンポンと叩いた。
「心配すんな。
その巾着の緑は、おまえに似合う色だぜ。
女はそれを考えて選んだんだろ。
おまえが女に合う色を選んだようにさ。」
「そ、そうか・・・!」
臆面もなく笑顔になる伊吹に、乾行はウンザリした。
ああ、やだやだ、純情野郎の初恋なんて体がむず痒くなるぜ。
疑問は何ひとつ解明したわけではなかったが
伊吹のあまりの純粋さに、事はうやむやになってしまった。
続く
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