ふすまの向こうから、小さな声が返ってきた。
「・・・伊吹さま・・・?」
伊吹にとっては、初めて聞く娘の声であった。
鳥が奏でる美しい歌のような声が、自分の名を呼んでいる。
伊吹は思わずふすまに手を掛けようとして、見張りの女に止められた。
そうだ、言い付けを守らねば二度と会わせてもらえない。
気を取り直し、伊吹は再び話し掛けた。
「お名前を教えていただけますか?」
「青葉と申します。」
姫の名は、高雄から聞いて知っていた。
だがどうしても、姫の口から聞きたかったのである。
「あ・・・青葉姫さま・・・。」
「はい、伊吹さま・・・。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
周囲の者たちが全員、顔を赤くするほどの
ふたりだけの甘い世界に耐えられなくなった高雄が
背を向けて咳払いをする。
このまま、名を呼び合っていたいが
事態が事態なので、悠長な事をしていられない。
「青葉姫さま、この俺、いや、私の命に換えましても
無事に帰して差し上げる事を約束いたします。
ですから、どうかご安心ください。」
その言葉だけでも、青葉には救われる思いがした。
しかし現実では、それは不可能。
「伊吹さま、わたくしも戦場に出た以上は覚悟をしております。
今の状況が、わたくしにとって何を意味するのかも。
・・・なので、そのようなわたくしのために
伊吹さまに不味い立場になってほしくはございません。
どうか、わたくしの事は捨て置いてください。」
「姫さま!」
立ち上がろうとする伊吹に、高雄が言う。
「時間だ。」
このまま高雄を斬り、見張りを斬り
姫を抱えてどこかへ逃げられるか?
伊吹は、グッとあごを上げた。
バカな。
そんな事を俺が出来るわけがない。
冷静になれ。
高雄だ。
高雄がやっている事だ。
俺はそれを信じて、姫を守るしかない。
伊吹は落ち着いた声で言った。
「青葉姫さま、俺、いえ、私の命はあなた様とともにある事を誓います。」
この言葉は、伊吹の青葉への最大の求愛であった。
青葉は伊吹の去っていく足音へ向かって、丁寧にお辞儀をした。
本当は、戦場であなたに斬られるのが
わたくしの一番幸せな最期だったことでしょう。
でも、それは言えない。
優しいお方だから、わたくしの言葉で生涯苦しむ。
いえ・・・、出会った事で既に苦しませているのかも知れない。
わたくしは、あなたにとって害でしかない・・・。
青葉のこの想いは、青葉の人生そのものになった。
続く
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