伊吹は、青葉が妻になった事で心休まる日がなくなった。
だがそれでも、青葉がいないなど考えられなくなっていた。
欲しいものを手中にする代償、それは良い。
だがそれを、“人” が人に与えるのか?
身分制度の強い世に生きてきて、何の疑問も持たずにいたものに
義憤を覚える時がくるとは。
俺は大殿の近くに仕えて、それを幸運と思えど
理不尽と感じる事は、ついぞなかった。
だが俺の感じているこの怒りは、“下の者” なら抱くはず。
今になって気付くなど・・・。
「何かを変えようとするのなら、大きな力を持たねばならぬ。
よき人であろうとするにも、“資格” がいるのじゃよ。」
考え込んでいる伊吹に声を掛けたのは、福江 (ふくえ) であった。
この老いた大名もまた、高雄と同じに歴史ある家柄を持ちながらも
八島の軍門に下ったひとりである。
今まではあまり話した事がなかったが
こうやって間近に見ると、そのたたずまいに
穏やかな人柄がにじみ出ている。
「かなりご苦労のようじゃな。」
福江の優しい語りかけに、伊吹は戸惑った。
「いえ、別に・・・。」
それだけ答えると頭を下げ、そそくさと立ち去った。
八島の殿を盲信していたわけではないが、
疑う必要がなかっただけだ。
それが今、突付かれて、よくよく周囲を見回すと
笑う者、顔を背ける者、様々な思惑が
渦巻いている事にようやく気付いた。
世は俺が知らないところで激しくうごめいていたのだ・・・
今の伊吹には、誰も信用が出来なくなっていた。
「槍を教えてくださいませぬか?」
青葉のお願いに、高雄は迷惑を隠さなかった。
「槍なら、そなたの夫の伊吹が達人だが?」
「わたくしが戦う準備など、あの人にとってはお辛い事。
それを頼めませぬ・・・。」
青葉の言葉に、高雄はイラ立った。
馬鹿か? この女は。
伊吹にとって一番辛いのは、こいつが他の男に頼る事だろうに。
高雄の厳しい視線に、青葉は動揺した。
「おい、おまえらあ、勘弁してくれよ。」
乾行がふたりの間に割って入る。
「“対” が見つめ合っている、と話題になってるんだぜ?」
「対?」
青葉が首をかしげる。
「そういう訳だ。
今後、私に近付くな。」
青葉にはわけがわからなかったが
聡明で、しかも伊吹さまのご友人のこのお方が
わたくしを避けるには、相応の理由があるはず、そう判断した。
「はい、何やらご迷惑をおかけしたようで・・・。」
そう答えたものの、高雄の言い方は
青葉を傷付けるには充分であった。
わたくしが何の悪い事をしたというの・・・?
フイとそっぽを向く青葉と、スタスタと歩き去る高雄。
残された乾行は、青葉の横顔を見て思わず口にした。
「美人は怒っても美しいんだな・・・。」
乾行の言葉に、青葉は困惑しつつも詫びた。
「あ、これは・・・
見苦しいところをお見せして申し訳ございませぬ。」
女好きの乾行は、青葉のどの表情も眺めていたかった。
ヤベえ、伊吹の気持ちがわかるぜ。
ああ、目の毒、目の毒。
んじゃ、と立ち去ろうとした乾行を、青葉が引き止める。
「あの、伊吹さまのお友達の乾行さまでいらっしゃいますよね?
婚姻後のご挨拶が遅れて申し訳ございませんでした。」
青葉は改めて乾行に挨拶をした。
「これから、どうぞよろしくお願いいたします。」
「いやいや、俺なんかと仲良くしても価値はねえよ。」
青葉の目がその言葉に光る。
その輝きに、ゾクッとする乾行。
高雄といい、この姫さんといい、
“美しさ” ってのは恐怖を与えるのか?
「乾行さまは、高雄さま伊吹さまと並んで
武力に長けたお方だとお聞きいたしました。
どうか、わたくしに槍を教えてくださいませぬか?」
「俺が姫さんの側にいると、伊吹が心配するぜ?
何せ俺は無類の女好きだからよお。」
その言葉に、青葉は動じなかった。
どうせお悩みなるのなら、色恋沙汰の方が
伊吹さまにとっては気がラクかも知れませぬもの。
元々女の頼み事に弱い乾行が、青葉の頼みを断れるわけもなく。
すまん、伊吹!
見るだけだ、見るだけ。
乾行は青葉の槍の師匠になった。
続く
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