私はしょっちゅう、人に 「どう思う?」 と聞く。
事ある毎に聞いている。
この問いで欲しい答というのはない。
ただ、その人の意見が聞きたいのである。
この、人の意見というのは
非常識でズレている私にとって、社会生活の生命線にも等しい。
これから先の自分の考え方の参考になるし
人がどう感じるかを知る事は、思いやる心に繋がる。
そういうのが “勉強” だと思ってる。
だから皆、私に “自分の考えを言う” という親切をしてください。
しかし、そうやって “勉強” をしているはずなのに
何でいつまでたっても常識が身に付かないのかがわからない。
いや、微妙に付いてるのかもしれんが
自分の常識への不信感が脳裏に根付いているんだろうな。
でも、私は世界一の常識人になっても
人に 「どう思う?」 と、問い続けるだろう。
人の物の考え方というのは、実に面白いからだ。
自分とは相容れない意見でも、その人の個性がとても興味深く
宝物を見せてもらっている気分になる。
と書いてて、これってパンツを覗き見する変態に似てるんじゃないか?
という疑念がわいたが、違うよな?
こういう私が相談を受けた場合、ちょっと悩む。
私は、相談=意見を聞く なんだが、そうでない人もいる。
賛同してほしいとか、慰めてほしい、後押ししてほしい、など
人は “相談” という言葉に色んな意味を詰め込むからである。
私の場合は、目的がはっきりしている場合は、それを言う。
「慰めろ」 とか、「安心させろ」 とか
相手が 「解決策を考えるべきなんじゃないの?」 と、言っても
「今はそういう気分じゃねえ。 いいから私を落ち着かせろ」
と、ゴリ押しをする。
動揺してる時にあれこれ考えても、良い案は出ねえもん。
とりあえず、心の平穏を取り戻すのが先決だろ。
友人たちは、私のこういうところを
「手間が掛かる」 と、困っているみたいだが
慣れればオッケー! (← ?)
こんな単純バカが 「この人はどういうつもりで相談してるんだろう」
と、人の心理を探っても、まず99%的を外している自信があるので
相談を受けた時には、とにかく自分の意見を言う。
なんか、ほとんどの人は 「ただ話を聞いてほしい」 というのが
“相談” のようなんだが、ちゃんとそれを伝えんなら
私にはわからんし、そもそも、私に相談するって事は
ズバズバ言われて構わんという覚悟があるんだと解釈する。
優しくされたいなら、優しい人を選んで相談するだろ。
私のところには、生け贄になった気分で来ーーーい!
相談された内容は、できるだけ客観的に見る。
ただし、それは私が得る事ができる情報の範囲である。
知り合い同士で揉めてる場合でも
私は相談しているヤツの情報だけで判断する。
相談するヤツは、当然主観で説明するので
それは事実とは違う場合もあるかもしれんし
相談者が知らない、気付いてない事もあるかもしれん。
真に公平に判断するには、当事者全員の話を聞くべきだが
私は、私に話を持ってきたヤツに一生懸命になるだけだ。
たとえば、AとBがケンカをして、Aが相談に来る。
Aの話では、Bはひどいヤツに思えても
それはそのケンカの場合限定で、私とBの関係には何の影響もない。
相談に来たAの意見だけで判断して意見を言うが
一方的な話をされたくないなら、Bも私に言いにくればいい。
そしたら、公平に考えるだけのことだ。
相談ってのは信頼関係なので
私は、私を信頼して話にきてくれたヤツに必死になる。
頼まれでもしない限り、“聞き込み捜査” はしない。
書いていて気付いたが、ほんと目の前の事しか対応してないよな。
しかし自分の能力では、これが精一杯じゃないかと思う。
私が仲裁に入ると、余計にグチャグチャになるだろうし
そもそも私に相談しても、厳しい事をビシビシ言われるので
ある意味 “敵” みたいなもんじゃねえのか?
てか、この “厳しい” というのは確信犯ではなく、第三者の評価。
「よく、あんな事を言えるね」 と、言われ
「言ったらまずい事だったんか?」 と、驚くパターンが多いので
多分、私はきついんだろうな、と、素直に受け取っているのだ。
でも、きつい事を言う、言われるのって、愛だと思う。
もちろん逆切れオッケーで、それも情愛の儀式のひとつじゃねえか?
読み返して思ったが、私に友人がいるのが不思議だよな。
いや、どこがどうなのかはわからんのだが
全体的な雰囲気で何となく自分への疑問がー。
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