子供が親を殺す事件が続いているが、ふと思った。
殺されてもしょうがないヤツ、ってのもいるんじゃないのか?
殺人事件の被害者がどんなに悪逆非道でも
「でも殺されるほどの事はしていない」 と、言われる。
普通の人が人を殺して良いのは、殺人者相手だけだ。
(死刑というのは、結局は国家による殺人だろ。)
だが、そういうキレイ事は
私たちが、日常の地獄を知らないだけなのかもしれない。
ロクでもねえ親を殺した場合だけに限って考えると
親というのは、大抵は不条理な面を持つ。
だが、子供を愛し、子供のためを思っているのは確かである。
完璧な人間などいないので、通常ならば
親は子供への愛だけで、親の資格を持って良いと言える。
しかし世の中にはそうではない親もいるらしい。
自分の事だけを考え、そのために子供を犠牲にする。
そういう親でも、親というだけで切り捨てにくい。
子供が、親を捨てる選択を出来るのなら良いが
子供の世界の親は、長年に渡って絶対的権力者でい続け
それを捨てるという、思考が封じられる場合も多い。
教育は極端な話、洗脳と同じだからな。
ロクでもない親を捨てて、自立できる子供は
洗脳を解く事ができる、もの凄い精神力を持っていると思うぞ。
親がマトモじゃなく、生きていくのが辛いという
そうした状況の時に、子供がかろうじて選択できるのが
自分を殺すか、親を殺すか、だろう。
どっちになるかは、子供の性格次第である。
家族が悪魔、家庭が地獄など、想像もつかない世界だから
分析しようにも材料がない。
そういう中で育つと、どういう感覚になるのかもわからない。
しかし、ニュースのコメンテーターが言ってる事や
それを見て私たちが抱く感想は
しょせん、“そういう世界を知らないヤツ” の
感覚でしかないのではないだろうか?
だから、ごく普通の常識に当てはめて考えるのではなく
まず、状況や背景に疑問を持つべきだ。
個人で持ったから、何が変わるかっちゅうと
「ああー、殺されてもしょうがないバカ親よね。」
というのが、“世間の声” になったら
それが、将来殺されるかもしれないバカ親の耳に届くかもしれない。
それで少しは態度を改めるかもしれない、という希望的観測。
私は決して、殺人を容認しているわけではない。
でも毎度毎度、「殺されるほどの・・・」 などと擁護をせず
「こんな事をやってたら、いつか寝首をかかれるかも」
という意識を持たないと、親殺しは減らないんじゃないのか?
ま、こういう気持ちを持てるヤツなら、ドグラ親にはならないだろうが
事件の凄惨さにだけ焦点を当てるのではなく
何故こうなったか? を考えるのが、犯罪の抑制になると思う。
何をやっても許される、などという時代など
一瞬たりとも地球上には存在していないのだから
善行は、ひいては自分のため、と思って
どんなヤツでも、ちっとは自分以外の人間にも気を遣うべきだろう。
特に今は、誰にでも “権利” があるんだ、と
子供でもわかっているんで、ラクに虐げられる相手などいないわけさ。
最近の事件で、殺された親がどういう人間だったかはわからない。
親はマトモで、子供がロクデナシかもしれない。
上の意見は、ふと感じた疑問なだけだ。
ただ、「家庭だから」「家族だから」 と
家の中でだらしなくするって、よくあるだろう?
「家で気を抜かんで、どこで気を抜けるんだ」 みたいに。
こういうヤツに限って、端から見てても
嫌気がさすような、自分本位のリラックスライフなんだよな。
てか、こういうセリフを吐く状況自体
家族に注意されての逆切れでしかないだろう。
そういうヤツに問いたい。
おめえの “気を抜く” ってのは、人に嫌われる言動をする事か?
普通に気を抜いてるのなら、誰も嫌がらないぞ。
その、気を抜いた時に出る “素” の人間性がおかしいんじゃねえの?
家族なら、そう簡単に逃げられないと思って
他人なら愛想を尽かすような態度でいるのは
家族の気持ちを尊重してないとしか思えねえよ。
これ、よくある話だから気をつけるべきである。
父親の下着だけ別洗いをされてるのなら、ヤバいな。
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