私には、嫌いな人というのがほとんどいない。
“ほとんど” と書いたが、その数少ない嫌いな人は
全部、過去の彼氏関係で知り合った人たちだった。
私が人を嫌う主な理由は、自分の存在を傷つけられた場合。
九州男児を嫌うのは、堂々と付属品扱いをしてくれるからである。
お陰で関西に逃亡した今は、嫌いな人はひとりもなし。
実に (私だけには) 快適な人間関係を築けている。
てか、自分の存在を傷付けられる場面は、いつでもどこでもあるけど
私はプライドが異様に低いので
余程じゃないと気付かない事が多い → よって嫌いな人も出来にくい
という、黄金のバカ最強パターンである。
そういう私が他人にどう思われているかと想像すると
どうも、許される or むちゃくちゃ嫌われる の両極端のようだ。
他人の悪口を聞いてて、「それ、私にも当てはまるんじゃねえ?」
と、訊いてみた事が何度かあったが
返事は 「あなたは良いのよ、悪気はないし」
みたいな、あいまいなフォローばかりだった。
同じ事をしても、私は良くてその人はダメって事は
まず、嫌いが先にきて理由は後付けなんかな、と思ったが
だったらその “嫌い” は、どっから来るんだろう?
私の場合、ヘタしたら会った事もないのに
相手からいきなり、すげえ嫌われてて
その理由もまったくわからない、という場面がたまにあるが
これとも関連性があるのではないかと思う。
答は案外単純で、そこまで出掛かっているようなのだが
他人の心理など推し量るものではない、とストッパーが作動している。
頂上に向かって投げた雪玉が、雪崩になって返ってくるような
イヤな予感がするからだ。
「嫌いな人なんていないわよ」 みたいに
一見、心が広い事を言っているのは、大抵が加害者側だという法則がある。
自分に被害がないから、キレイ事でいられるのだ。
多分私も自覚があろうがなかろうが、誰かにとっては加害者なのだろう。
しかしただひとつ、“悪気がない” というのは手に負えない
という事だけは、私にもわかる。
この言葉は毎日聞くかのようによく使われていて
何かの諦めの呪文のような気がする。
私もこの言葉とともに許されている予感がするので
自分がその、悪意なき悪意そのものじゃないか? という不安があるが
自分のどこが悪いのか、その悪い部分は果たして直せるのか
深く考えるとドツボにハマるので、とりあえず放置している。
正直、万人に合わせた私作りは不可能だし
周囲の友人知人に気を遣うだけでゼイゼイだぜ。
こういう、いけシャアシャアとした部分が嫌われるのかも知れないけど
逆にものすごい高評価だったり、好かれている事もあって
今のところ勝敗はどっこいどっこいなので
正直、どう生きたら良いのかさっぱりわからず
投げ出しているのが実情なのさ。
こういう、他人と自分の思惑の差などは、よっぽどな実害でも出ない限り
あまり追求しても、正解はないと思う。
自分がした事は必ず自分に返ってくる、ってのを知っていて
大事なものも持っているのなら、人はそう道を外れないものだぜ。
と信じて、今日も生きていこう。 はー、やれやれ。
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