体が重くて、アッシュは中々ベッドから起き上がれずにいた。
夕べは睡眠導入剤だけじゃ眠れなくて、安定剤も飲んだしなあ
そんな薬の飲み方をしたら、すっげー体がダルいんだよなー。
アッシュはそう判断したが、心身ともに疲れているのが原因だった。
兄ちゃん、お酒に逃げていたんかもな。
ああー、酒飲みの気持ちがちょっとわかる気がするー。
戦いのストレスは、アッシュの想像以上に大きく
無意識にそれを認める考えをしていた。
アッシュは飲酒はしないが、薬に逃げるタイプである。
薬好きで、専用のポーチを持ち歩いている。
だがアッシュはオーバードースは決してしない。
薬は気合いで効かせるもの、適量で効かなければすっぱり諦める
それがアッシュの信念だった。
アッシュは全体的に、“信念の人” であるが
それが自分を追い詰める作用をする事も、多々あったのは悲劇である。
いや、本当の悲劇はこれから始まろうとしているのだ。
今日はこっちの4階と2階に行かなければ・・・
重い体を起こして、アッシュは顔を洗いに向かった。
考えに考えて出したやり方は、結局各階を巡る、という
ごく普通の方法であった。
地下の設備に近い場所に、本拠地を構えるのが普通だと思うんだが
ペントハウスってのは最上階にあるもので
VIPはそういうとこに住まないか?
あるいはそんな推理を見越して、中途半端な階に据えるかも知れない。
考えれば考えるほど、“もしも” のワナにハマっていくので
短気を起こして、シラミ潰しの方法を選んでしまったのは
過去の相続者と同じ道をたどっているという事に
アッシュは気付いていない。
正直、アッシュはアホウであった。
北側4階の部屋のドアを開けて良いか、ローズに訊ねて
南側と同様に断られ、そこが居住区だと確認できたアッシュは
娯楽室だけを覗き、2階に向かおうと提案した。
娯楽室にいた2人の男性の目付きから
皆のアッシュを見る目が変化している事を知ったローズはさえぎった。
「ちょっと待ちな。 2階に行く前に私の部屋に寄ろう。」
ローズはアッシュをソファーに座らせて、寝室の棚を漁った。
「これしかないけど、とりあえず持っときな。」
手渡されたものを見て、アッシュは喜んだ。
「すっげー、これ鉄板ガード入りじゃないですかー。
ハードグローブってやつでしょー?」
「あんた、妙に詳しそうだね。」
ローズが呆れ気味に言うと、アッシュがムッとした。
「一般常識ですよー、これ、スワットの標準装備なんですよー?」
「・・・知らないよ、そんな事・・・。」
ローズのつぶやきを意に介さずに、そそくさとグローブをはめ
手を振り回しながらアッシュが言った。
「うわ、鉄板って重いですねー。 私の筋力じゃ無理かもー。
パンチのスピードがまったく出ないー。
ま、ヌルいパンチだから重みが出た方が良いのかもだけどー。」
数回素振りをしただけで
「ああ・・・、もう腕が上がらないかもー。」
と、ソファーに倒れ込むアッシュに、情けなさを感じるローズであった。
2階に下りて行き、ドアを開けて良いか訪ねた時の
気をつけな、の返事に、来るべき時が来た、と
アッシュは心臓がドクンと鳴ったのを感じた。
手が震えて、ドアレバーを上手く掴めない。
ローズが見かねて、手を添えてドアをそっと開けた。
部屋の中央に小さい影が見えた。
それは手に包丁を持った子供の姿だった。
アッシュがフリーズする間もなく、ローズが部屋に駆け込み
それがどういう展開を意味するのか、理解したアッシュは
とっさに部屋の前から離れた。
物音がして、出てきたローズにアッシュは非難の目を向けた。
ローズはわかっていたかのように、それを見るでもなく怒鳴った。
「よく聞きな、しょうがないんだよ、敵である限り!
子供が一番恐いんだよ、わかるかい?
天使のような表情で同情を誘って、ブッスリだ。
あいつらは小さな体でどこにでも潜める。
テーブルの下に隠れて、膝の裏を斬られるかも知れないんだよ。
やらなきゃ、こっちがやられる。
現実は理想とはまったく違うんだよ!」
それでもアッシュの表情は変わらなかった。
ローズは溜め息を付いて、語りかけるように続けた。
「殺しちゃいないよ。
殺す必要はないんだ。
そりゃ運が悪けりゃ死ぬかも知れないけど
その時に戦闘続行不能にすれば良いんだよ。
今までの戦いだって、死んだのは最初の男だけなんだよ。」
アッシュは無言でローズを見つめていたが
自分にローズを非難する資格はない事は、よくわかっていた。
だったら自分のこの態度は、ローズにとって酷い行いである。
そこまでわかっていても、どっかに何かが引っ掛かっていて
それがアッシュの心臓を締め付けているのだ。
無抵抗で死ぬ・・・・・?
以前にローズが怒った時に言った言葉が、アッシュの脳裏に浮かんだ。
果たしてその決断が出来るのか、迷っていた。
その時に横で動く影が見えた。
ローズとアッシュが、同時にその方向を見た。
少女が立っていた。
服装も髪型も、アンティックドールのようだったが
何故か全身が茶色い粉にまみれている。
アッシュを視認した少女が、突然、耳障りな金切り声を上げた。
反射的にアッシュは、少女を蹴り上げていた。
最初に “何故?” と自分に訊いた。
体が勝手に動いてしまったのだ。
生きてる・・・よね?
でもそれを確認できない。
少女の存在自体が恐いのである。
さもわかった風に、モラルだの思いやりだの言ってても
結局それは安全圏の中でしか保てない、もろい道徳だったんだ。
風が吹いたら舞うような、軽い倫理観、軽い価値観、軽い考え
軽い軽い人生だったんだ。
それを、さぞ必死に生きてきたつもりになって・・・。
自分の身が危ないとなると、手の平を返して本性を出す。
私の本性って、こんなんだったんか?
何よりも、まず自分 だったんか?
すべてが覆ってしまい、自分の何もかもが薄汚いものに思えてきて
どうしたら良いのかわからず、指1本すら動かせないアッシュの
尋常ならぬ様子に、ローズはこう訊くしかなかった。
「大丈夫かい?」
むろん反応はないが、アッシュの葛藤はわかる。
多分こいつは、弱い者に暴力を振るった自分が信じられないんだろう。
でも、このままここにいたら危ない。
「ほら、部屋に着いたよ!」
そう叫ぶローズに、頬をバシバシはたかれて、アッシュは我に返った。
いきなり自分の部屋にいるのが、わからなかったが
フラフラとバッグのところに行き
震える手で、ポーチのチャックを開けようとした。
「何だい? これを開けるんかい?」
ローズがポーチを取り、開けて渡すと
アッシュはその中身を全部床にバラまいた。
それは大量の薬で、震える手でかき混ぜるアッシュの姿は
まるで薬物中毒者のように見えた。
見つけた薬を持つ手は大きく震えていて、とても役目を果たせそうにない。
「これを飲みたいのかい?」
ローズは1錠アッシュの手に握らせ、水を持ってきた。
「ほら、飲みな。」
アッシュの口に錠剤を入れ、水を飲ませる。
床に座り込んで、呆然としているアッシュに
まるでジャンキーだね・・・、そう思っても怯まなかったのは
ローズにも選択肢が残っていないからであるが
何より、アッシュを信じたいからなのが大きい。
ローズは自らここに来て、ここで生きてきた。
ここを否定される事は、自分を否定されるのも同然である。
アッシュはそんな “ここ” に、馴染もうとしていた。
それはローズ自身に同化しようとしているように思える。
他の相続者にも、その傾向はあったのだが
やはり、“知らずに来た” というのが、評価の底上げをしていた。
その気もなく来たのに、中々出来ないよ・・・。
座り込んでいたアッシュの目が動き、フウーと溜め息を付いた。
「・・・30分経ちましたー。
薬が効いてきたようで、ちょっと落ち着きましたー。」
はあ????? 何だ、そりゃあ?
ローズは顎が外れそうに、あんぐりと口を開けた。
「薬って、大抵30分ぐらいで効くんですよー。
これ、軽い安定剤なんですけどー。」
ないないないない、それはない!
と、ローズは否定したかったが、思いとどまる。
聞いた事がある。 自己暗示・・・。
それがこいつの乗り越え方なんだ、と気付いたからである。
こいつの精神力の源は、自己暗示の強さなのだ。
きっと薬はその道具でしかない。
たった1錠で、それも30分で、あんだけの放心を取り戻すなど
どんなに強い薬でも不可能だ。
何というか、珍しい対処法だね。
この奇行も、アッシュが “普通” じゃない証しで
普通の能力じゃないアッシュは、主として大きな可能性を秘めている。
こいつはまだまだだけど、主にふさわしいかも知れないね。
ローズがここまでアッシュを擁護するのは
アッシュというカギを否定するのは
自分の未来をも潰す事になるからだ、という無意識の防御であった。
「とにかく、もう今日はお休み。」
「はい・・・。」
アッシュの様子を見て、安心したローズは部屋を出て行った。
アッシュはそのまま布団に入った。
部屋着、外出着、とはっきり分けないと落ち着かない性格なので
普段なら、これはありえない事である。
もちろん眠りたくても眠れない。
頭の中で否定的な考えがグルグル回る。
アッシュの目から涙がこぼれ落ちた。
「兄ちゃんは、こうなるのがわかってたんかも
だから何もしなかったんかも。」
うつぶせになって、ひとしきり泣いた後
床に散らばったままの薬の山のところに行き
探し当てた青い錠剤を2錠口に放り込み、水をガブガブ飲んだ。
続く。
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