予定よりも随分早かったが、まず新婦が席を立つ。
“普通” は、女性の方が身支度に時間が掛かるからである。
伊吹は風呂場に入って驚いた。
乾行が手拭いを持って、待っていたからである。
「おお、おまえも一緒に入るのか?」
伊吹の間抜けな質問に、たすき掛けの乾行は苛付く。
一応、伊吹の名誉を守るために
湯殿の周囲から人を追い払った高雄は
風呂の火の番をする羽目になった。
宴会場は安宅が上手くやってくれる事であろう。
高雄は焚き口前の石に座り、燃え盛る火を見つめた。
湯殿から乾行の声が聞こえるが、反響で話の内容まではわからない。
揺れる火に、友人の楽しそうな声
それまでの疲れが一気に吹き出したのか
さすがの高雄も、カクンカクンと舟をこぎ始めた。
杯をクワッとあおって、八島の殿は考えた。
いくら乾行と言えども、伊吹相手にこの短時間でどこまで仕込めるか
ちょっと様子を・・・
「人に様子を見に行かせるなど、下衆な事はなさいますなよ?」
隣に座っている正妻が、八島の殿に釘を刺した。
八島の殿が側室を取らなかったのは、この農民上がりの妻のためであった。
まだ地位が低い八島の殿を、本気で愛し支え
ともに苦労をしてくれた、糟糠の妻には頭が上がらない。
「ま、まさか。」
八島の殿は笑って誤魔化したが、ギンッと睨む妻に
自ら見に行こうとしたなど、冗談でも言えなかった。
乾行は一言目を、何と言い出せば良いのか悩んでいた。
ちっ、女をくどく方が全然ラクだぜ。
もう何人もの女と遊んでいてもおかしくねえ歳のこいつの
自尊心を傷付けずに、“説明” をするには・・・
あまりに考えすぎて、頭がもうろうとしてくる。
湯に浸かっている自分より、汗をダラダラ流している乾行を見て
伊吹の方が、口火を切った。
「なあ、乾行、おまえは初夜の心配をしてくれているのだろう?」
その直球さに乾行はギクッとしたが、同時に笑いが込み上げてきた。
そうだよな、真っ直ぐなこいつには真っ直ぐにぶつかるしかねえんだよな。
「おう、おまえが “やり方” を知ってるのか不安でなあ。」
伊吹は黙り込んだ。
しかしその沈黙は拒絶ではなく、思考のようである。
乾行は湯船の淵に腕をかけて、伊吹の返事を待った。
「乾行・・・、俺はさっきまで緊張でガチガチだった。
好いた姫が隣にいて、何と俺と結婚してくれているのだ。
不自由な思いをさせたらどうしよう、嫌われたらどうしよう、と
今後の暮らしの事で頭が一杯でな・・・。」
乾行は衝撃を受けた。
あの場にいた誰もが、伊吹の緊張は初夜への不安だと思っていたが
伊吹の頭に、それがなかったとは。
「だが、姫は俺よりも緊張していたんだ。
うつむいて、ひとことも喋らない。
それが花嫁の作法なのは、女にとって初めての同衾 (どうきん) は
男よりも重い意味を持つからだと思うんだ。
俺はそんな姫の気持ちを、おもんぱかってやるべきだった。
乾行、ありがとう。」
乾行は一瞬、感動しかけた。
が、“経験値” がそれを許さなかった。
「で、おまえ、やり方を知ってるのか?」
伊吹は爽やかな笑顔で答えた。
「愛があれば乗り越えられるさ!」
乾行は、湯殿の床に倒れ込んだ。
駄目だ、こりゃ。
それが上手くいかなくて愛が壊れる場合もあるんだぜ?
だが新婚馬鹿には通じるまい。
どれ、こいつが聞きたがらなくても、事務的に一通りの手順は喋っておこう。
「困った時にはいつでも相談に来いよ」
の、一言も添えて。
“純情馬鹿” の伊吹に、しにくい話題を振って
しかも理解してもらわねばならない、という重責と
湯殿の暑さと湿度にヘトヘトになって
ようやく伊吹を寝屋へ送り出して来てみれば
消えかかった火の前で、いつもは気取った美しい男が
ススまみれになって、コックリコックリと寝入っている。
乾行は高雄を起こさぬよう、ソッと隣に座った。
そして消えかかった火に、薪をくべる。
こいつが目覚めたら、一緒に風呂に入ろう。
そして嫌がるだろうが、こいつの背中も流してやろう。
伊吹よ、高雄のこの炭で汚れた寝顔が、こいつの真の結婚祝いだ。
続く
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