カテゴリー: 小説

あしゅの創作小説です(パロディ含む)

  • ジャンル・やかた 48

    デイジーは、ディモルと親しくなるのに充分に時間を掛けるつもりだった。
    軽い女じゃない、と思わせないと。
    そう企むデイジーは、本当に一途な女だった。
     
    「そろそろ良いじゃねえかよ
     あんたはまだ若いんだし、ヤツもあの世で納得してるさ。」
     
    ディモルが誘う言葉の端々に、サカリの付いた男特有の無神経さがあり
    マティスに対する冒涜を感じて、頭に血が上る事が度々あったが
    その怒りを上手く変換して、ディモルを操った。
    「あたしゃ、マティスを殺したあの主が許せないんだよ!
     こんな気持ちじゃ、あんたにも申し訳ないんだよ。」
     
     
    「俺も主を憎んでいる。」
    そうディモルが言い出すまでには、時間は掛からなかった。
    志を同じくする仲間がいるらしき事も、すぐに告白した。
     
    チャラい男だわね
    デイジーはより一層ディモルを軽蔑し、亡きマティスへの愛を深めた。
    この事により、デイジーは何でも出来る決心が付いた。
    心がなければ、それはただの行為である。
     
    この悟りは、セックスだけではなく殺人にまで適用される。
    奇しくも、産まれ出す行為と死の行為、相反するふたつの事柄に、である。
     
     
    アリッサがデイジーに耳打ちをした後に事は起こる。
    医療室で、ひとりの患者が死んだ。
     
    重病や複雑な治療が必要な者は、長老会管轄の街の病院に送られるが
    それでも館の医療室は、診療所クラスの設備が整っていた。
     
    死んだ患者は、深酒が過ぎて少し肝臓を患っただけで
    入院はしてても、命に関わる事態ではなかった。
    しかし館の医師は、深く追求もせず事務部に報告し
    事務部も何の疑問も抱かずに、長老会へと上げた。
    その流れの途中に、アッシュもリリーも関わっていた。
     
    この館の住人の命が軽かったわけではなく
    病院で死ねば病死、その一般的な感覚が全員の目を曇らせたのである。
     
     
    デイジーはアッシュに助けを求めた時に
    この一件は自分が点滴にとある物を少量混ぜた、と告白したが
    解剖もされなかった遺体は、死因の特定もされず
    報告書には “心不全” と書かれていただけであった。
     
    デイジーの告白を聞いた時に、アッシュは自分の父親の事を思い出した。
    アッシュの父親も、ある朝突然息絶えていて
    死因が心不全、と言われたのである。
     
    そんな物を摂取するだけで、普通っぽく死ねるなんて・・・。
    アッシュはデイジーの話を聞いて驚いた。
    それは子供に舐めないように注意をするだけの
    どこにでもある生活に密着した成分であった。
     
     
    葬式の時の墓地の前で、再び握り拳を振るわせるディモルの隣で
    そっとその握った手に自分の手を重ねつつ、デイジーはほくそ笑んだ。
    あんたの言動を見てれば、誰が仲間なのかすぐわかるのよ。
     
    高笑いをしたくなるような気持ちを抑え
    デイジーはディモルの顔を見つめて、背中を優しくさすった。
     
    「親しい人だったの?」
    「ああ・・・、仲間だった・・・。」
    ディモルはデイジーを抱きしめた。
     
    安酒の匂いに、デイジーは吐き気を覚えた。
     
     
    続く。
     
     
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          ジャンル・やかた 1 09.6.15

  • ジャンル・やかた 47

    リハビリ部のアリッサの整体室には常連が多い。
    アリッサは主に整体を担当していて、何でもニコニコと聞いてくれるが
    ちょっと頭が弱く、聞いた話をすぐ忘れるのを、皆よく知っていた。
     
    肩が凝った腰が痛い寝違えたなどの、ちょっとした事で立ち寄っては
    リラックスして世間話をしていく者が多いのである。
    この館で、アリッサのマッサージを受けた事がない者は少ない。
     
     
    デイジーはマティスを失ってから、泣き暮らしていた。
    そんなデイジーに何かと世話を焼いたのが、アリッサである。
    ふたりが急速に親密になった事を、皆は気付かずにいた。
    それは正にアッシュの相続真っ最中の時期で
    館全部がアッシュの動向にのみ注目していたからである。
     
    それをデイジーは利用した。
    アリッサの背後にデイジーがいるなど、誰も想像はしないだろう。
     
    アリッサは聞いた話を忘れているわけではなく
    伝達する意志も技術もないだけなのだ。
    ちゃんと事細かく指令を与えれば、言われた通りに動いてくれる。
     
    デイジーの、アリッサに対する友情は深かったが
    今はとにかく主様命で、アリッサも同じ気持ちだと信じていた。
    何よりも主様を優先しなくちゃ・・・
    デイジーはこの強固な決意を、アリッサにも無意識に植えつけていた。
     
     
    デイジーのアリッサへの情報収集は、アッシュの鼻先で行われていた。
    アッシュのその日のマッサージ時間の予定を伝えに行くのは
    デイジーの仕事のひとつになっていたのである。
     
    送り迎えは、館内護衛のローズが付いてくるが
    リハビリ部のアリッサの整体室には、基本的に患者ひとり以外は入らない。
    デイジーがアリッサに連絡に行き、アッシュが行く直前になって
    またデイジーが、不都合がないように整体室を整えに行くのだ。
     
    準備が終わると、ローズに連絡を入れ
    アッシュがやってきたら、デイジーは整体係の控え室に行く。
    ローズはアッシュが整体を受けている間、ドアの前で待つ。
     
    アッシュがローズと帰っていったら、整体室の片付けを手伝った後に
    世話係の控え室に戻っていくのである。
    アッシュは結構VIPな待遇を受けているわけだ。
    そのアッシュの整体の前後に、デイジーとアリッサは密談をしていた。
     
     
    そんなある日、アリッサがデイジーに言った。
    「主様のわるぐちばかりいうヤツがいるだよ。」
    「それは誰?」
    アリッサはデイジーに耳打ちした。
     
    数日後、館の敷地内の池に男性が浮いているのが発見された。
    池の周囲には人だかりが出来、遺体の引き上げを見守っていた。
     
    デイジーもその場で、いかにも恐がってるような素振りで見物をしていたが
    握った拳を振るわせる男を、群集の中に発見する。
     
     
    酔っての溺死だと館の医師が判断し、ほとんどの者はそれを信じた。
    「そんなわけあるかい!」
    深夜の食堂で酔い潰れて、クダを巻く男にデイジーが近寄った。
    「あんた、こんなとこで寝ちゃ風邪引くよ。」
     
    「ん・・・? おめえは・・・誰だったっけ・・・?」
    「あたしはデイジー。 主様の明日の食事の打ち合わせさ。
     今日は仕事が立て込んじゃって、こんな時間だよ。
     まったく人使いが荒いったらありゃしない。」
     
    イラ立った口調のデイジーに、男はつい口を滑らせた。
    「ん、ああ、まったく何様だっつんだよ、あいつはよー。
     おめえ、一杯付き合えよ。」
    「あたしゃまだ仕事が残ってんだよ。」
    「そうか、おめえも大変だな、俺はディモルっつんだ。
     夜は大抵ここで飲んでるから、おめえも来いよ。」
    「ディモル、ね。 またね。」
     
    デイジーは食堂を悠々と出て行ったが、動かす足のその膝は震えていた。
     
     
    続く。
     
     
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  • ジャンル・やかた 46

    「いいですかー? たとえニセの情報でも、それを渡したら
     あなたが役に立つ、と判断されてしまい
     今後の負担が大きくなってしまいますー。
     とにかく “使えない女” と印象付けるためにも
     オドオドしながら、ビイビイ泣くんですよー?」
     
    アッシュがデイジーの両頬を両手で包みながら
    顔を近づけて何度も念押しをした通りに、デイジーは振舞った。
     
    「あたし・・・、何とかやってみようとしたんですけど・・・
     でも主はいつもソファーに座って、こっちを睨んでいて・・・」
    すみません、と顔を覆った手を震わせながら泣くデイジーの肩に
    ディモルが手を回しながら言った。
     
    「もういいだろ!
     お茶を運ぶだけの仕事に、そんなチャンスなど来るわけねえよ。
     こいつも頑張ってるんだ、時間が掛かるのはしょうがねえぜ。」
    デイジーはディモルの胸に顔を埋めた。
    「ごめん・・・、あたし、あんたの役に立ちたかったんだけど・・・。」
    デイジーは、恋に狂うバカな女を完璧に演じていた。
     
     
    ふたりを見て、部屋がザワついた。
    「しょうがねえんじゃねえのか?」
    「ああ、急な話だしな。」
    「でも1ヶ月あったんだぜ?」
    「だけど、ただのお茶酌みに主の机が漁れるかよ?」
    「あの狡猾な主だしな・・・。
     見つかればどんな仕打ちが待ってるかと思うと恐ろしいぜ。」
    「しょせん女子供には無理な話だったんだよ。」
     
    空涙を流しながらも、デイジーは腹が煮えくり返った。
    あんたらに主様の何がわかるってのよ!
    ディモルが申し訳なささのためだと、都合良く勘違いしたデイジーの震えは
    半分は怒りによるものだった。
     
    「見つかったらそれこそ、その女の価値はないぜ。」
    「何だと!」
    ディモルが恋人を侮辱されたと感じて、前に出ようとした瞬間
    「もういい!」
    皆の背後から大声が響いた。
     
     
    立ち上がったのはバスカム。
    反乱グループのリーダー的存在である。
    アッシュ曰く、“若くてイケメンで人格者で頭が切れる”
    という評価のヤツだ。
     
    監視側も以前から目を付けていた内のひとりだったが
    集会は不定期に行われる上に、各人の部屋の持ち回りになっていたので
    彼らが徒党を組んでいる、とまでは見抜けなかったのだ。
     
     
    バスカムの部屋には、パソコンや通信機器が揃っていて
    反乱グループの拠点になっていた。
     
    いまや見過ごす事が出来ないほどに
    この反乱グループの形が出来上がってきたのには
    館の誰もが、何の疑問も感じていなかった数件のある出来事が関係していた。
     
     
    続く。
     
     
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  • ジャンル・やかた 45

    「もー、パス27までしちゃいましたよー。」
    アッシュの話を聞いて、リリーは固まってしまっていた。
     
    「ね? 凍るでしょー? 私のあん時の気持ち、すんげえわかるでしょー?」
    アッシュのお仲間の誘いには乗らず、リリーは青ざめた顔で訊ねた。
    「それで、どうなさるんですか?」
     
    「反乱グループに情報なんて渡せませんよねー。
     とりあえず、今夜の事はそっち方向で言い含めておきましたから
     デイジーがそれを上手くやってくれれば、当分はしのげますー。」
    アッシュが机に片手を置いて、格好をつけた。 別に意味はないが。
     
     
    「にしても、反乱グループとは・・・。」
    「監視部は掴めてなかったんですかー?」
    「長老会所属は、住人たちとは一線を引いていますからね。
     しょせん機械頼りでは限界がありますね・・・。」
     
    「と言う事は、今回の問題発覚は、私の人徳が功を奏したわけだー。」
    「・・・問題が大きくなってますけどね・・・。」
    威張るアッシュを睨みながら、リリーが責めるように嘆いた。
     
     
    リリーが腕時計を見る。
    「・・・そろそろ時間ですね。」
    アッシュとリリーは、書斎から地下に降り
    薄暗い通路を通って、モニタールームへのはしごを上る。
     
    改築のおり、アッシュの特殊な趣味を取り入れたお陰で
    書斎、寝室、モニタールームは、誰にも知られずに行き来できる。
    「ニンジャ屋敷仕様、役に立つよねー。」
    得意げなアッシュに反応する余裕は、リリーにはない。
     
     
    「様子はどう?」
    「夕方から約1時間ごとに人が入っています。
     今、部屋の中には6人いるはずです。」
    モニター監視員が画面を見つめながら答える。
     
    「リリー様、先月の記録でそれらしきものを見つけました。」
    背後の予備画面で、それが早送り再生される。
    「8人集まってるわね。
     これは誰も気付かなかったの?」
    「はあ・・・、これだけの数の画面ですから・・・。
     カメラの数が多すぎるのが仇になりましたかね・・・。」
     
     
    「カメラは多いに越した事はないに決まってますよー。」
    アッシュが明るく能天気に言う。
    「何かあれば、こうやってチェックできるー。
     後手に回ったのは、私側実働隊のミスですからー。
     ちゃんと連動できれば、これほど強力な武器はないですよー。」
     
    「主様・・・」
    振り向いた監視員たちの目に入ったのは、腕組み仁王立ちのアッシュだった。
     
    反乱グループがいるらしい、という話を聞いた監視員たちは
    自分たちの目は無力だった、と落胆していたのだが
    アッシュの言葉に救われる想いであった。
     
    「はい、モニターをしっかり見ていて!
     どこから出た誰が、どこに入って行くのか、確認しないと!」
    リリーが手をパンパンと叩き、監視員たちは慌てて画面に向き直った。
     
    まったく、隙があれば主様モードを出したがるんだから・・・
    リリーは呆れたが、アッシュのこの言動はまごう事なき性格だった。
     
     
    「モニター42、南館405号室から男性退室、南方面へ廊下を移動。」
    「モニター38、北館312号室から男性退室、北方面へ廊下を移動。」
    報告が相次ぐ中、ひとりの監視員の報告にアッシュとリリーが注目した。
     
    「モニター9、南館328号室から女性退室、北方面へ廊下を移動。」
     
    デイジーである。
     
     
    続く。
     
     
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  • ジャンル・やかた 44

    周囲の人々に助けられて、何事もなく日々が過ぎ
    一時期の超多忙ぶりも落ち着いたある日
    お茶を運んできたデイジーが、神妙な面持ちで訊いてきた。
     
    「あの・・・、ご相談があるんですけど・・・
     お話できる時間は、ありますでしょうか?」
     
    そういや、ここ数日ソワソワしたり、沈み込んでいたり
    何かと彼女の様子がおかしかった。
    「ええ、もちろんー。
     さ、そこに座ってー。
     あなたも一緒にお茶を飲みましょうー。」
     
    アッシュがポットを取ると、デイジーが慌てた。
    「いえ、そんな、とんでもない。」
    「いいから、いいからー。」
     
    アッシュがお茶をカップに注ごうとしたら
    ポットの蓋が外れ落ちて、カップを直撃して割ってしまった。
    「だからーーーっ!」
     
    デイジーの叫びを聞き、あ、畏れ多いって事じゃなく、“だから” なのね
    と、アッシュはご主人様ぶった自分を恥じた。
     
    デイジーが “きちん” と淹れてくれたお茶を飲みながら
    アッシュは混乱していた。
    デイジーはソファーには座らず
    自分の真横に両膝を付いて、話そうとしているのである。
    尊敬されてんだか、遊ばれてんだか、一体どっちなんだろう?
     
     
    そんなどうでもいい混乱は、デイジーの話でふっ飛んだ。
    「あたし、少しでも主様のお役に立ちたくて、ずっと調べていたんです。」
    こういう事を言うヤツの行動が大抵ロクでもないのは、歴史が証明している。
    ドキドキしながら続きを聞く。
     
    「反乱者グループの事を。」
    その単語に、アッシュはティーカップを落としそうなぐらいに驚いたが
    その動揺を何とか最小限に押しとどめて、素早くすり替えた。
    館内を把握し管理しているはずの “主様” に
    知らない事があってはならないからだ。
     
    「調べるって、あなた、そんな危険な事をー!」
    いかにもデイジー本人の事を心配するそぶりをする。
     
    「でも、主様、お命を狙われたじゃないですか!
     それだけでも心配なのに、あの事件以来、更にお忙しくなられて
     食欲も落ちてしまわれて、あたし心配なんです!
     あんなヤツらがこの館にいるから・・・。」
     
     
    デイジーの目に浮かんだ激しい怒りの色を見て
    アッシュはそっちの方が不安になった。
    ヤバい、これは狂信者というやつか?
     
    「それでアリッサに頼んで、情報を集めていたんです。
     リハビリ部には大勢の人がやってきますから。」
    ああ・・・、アリッサもかい・・・、アッシュは目まいがした。
     
    「それで、あたし、ディモルと付き合い始めたんです。」
    へっ? アッシュはいきなりの展開に付いていけず
    「そ、それはおめでとう・・・ なのー?」
    と、妙な言い方で返事をしてしまった。
     
    「めでたくなんかないです!
     あたしには、一生マティスだけです。
     あの人を忘れる事など、出来るわけがありません。
     だけどこの館を守ろうとする主様のためなら
     きっとマティスも許してくれるでしょう。
     あたしは恥じてはいません。」
     
     
    デイジーは、相続戦で死んだ男性、マティスと結婚したかったけど
    ふたりともこの館を出て生きていく自信がなかったので
    一生ここでふたりで暮らすつもりだった
    と、以前アッシュに語った事があった。
     
    それだけに、マティスの死で、一層この館への執着が強くなり
    その想いがすべて、“主様” に向けられているんだな
    と、アッシュはその話を聞いて感じた。
    だからデイジーの前では、なるべく彼女の “主様” 像を壊さないように
    努めたつもりである。(それでもこの体たらくなんだが)
     
     
    「デイジー、まさか・・・、えーと、その何とかとかいう人はー・・・。」
    「ディモルは、反乱グループのひとりです。」
    何てこったい・・・、アッシュは脳がグラグラした。
     
    「主様、この話を今日したのは、時間がないからなんです!
     本当なら主様にはご迷惑をお掛けしたくなかったんですけど
     もうあたし、どうしたら良いかわからなくて・・・。
     主様の助けになるつもりが、逆に頼る事になるなんて・・・」
     
    デイジーの狼狽を見て、ただ事じゃないと悟ったアッシュは
    「落ち着いてー。
     とにかく最初からすべて話してくださいー。
     大丈夫、私が絶対にあなたを守りますからー。
     そのために私はここにいるんですよー。」
    と、優しくかつ頼もしく微笑んだが、デイジーの話が進むにつれて
    想像を超えたあまりの衝撃に、そのショックを表にこそ出さなかったが
    心の中では、大声で叫んでいた。
     
    パス1ー! パス2ー! パス3ー!
     
     
    続く。
     
     
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  • ジャンル・やかた 43

    「・・・さま、主様」
    呼び声にふと目覚めると、枕はヨダレだらけだった。
     
    「よくねてらっしゃっただよ、ほんとおつかれなんだね。」
    アリッサがアッシュの顔のヨダレを拭く。
     
    「ああ・・・ごめん、寝てた・・・?」
    寝ぼけ眼でアッシュがヨタヨタと体を起こす。
    「ねてたなんてものじゃないだよ、はぎしりしてらっしゃっただよ。
     はぎしりはほねにもんのすげえわるいから、やめたほうがいいだよ。
     といっても、じぶんじゃどうにもできんしなあ
     ストレスがげんいんなんだ。」
     
    「ストレスねえ・・・。」
    アッシュが溜め息を付く。
     
    「わしになんかできることがあったら、いつでもいってくだせえ。」
    アリッサの言葉に、不覚にもジーンとさせられたアッシュ。
     
    「アリッサには、こうやってマッサージをしてもらって
     いつも助かってるんですよー。
     本当にありがとうー。
     お陰でずいぶんとラクに体が動くようになりましたー。」
    「そ、そんな、わしなんかにおれいなんかもったいないだよ・・・。」
     
     
    アリッサがドギマギしながら言うのを見て
    アッシュは、もうちょっと主らしく振舞わねば、と反省させられた。
    この人たちは、本来の私ではなく “主様” を私に要求しているのだから
    その期待に応えるのが、自分の役目なのだ。
     
    リリーは聞く耳を持たず、クールに無視をしてくれるし
    ジジイはここぞとばかりに罵倒をしてくれるのから
    このふたりだけには、遠慮なくグチグチ言えるのだが
    住人たちに、自分の心情を知られるのはマズい。

    “主様” に私心があってはならないのだ。
    “主様” の中身が人間なのは、明確な事ではあるだが
    住人たちには、そんな事情は必要ないどころか、邪魔である。
     
    最近、忙しさにかまけて、どんどん地が出てたからなあ
    こりゃ、威厳もへったくれもねえわ
    アッシュは自分のだらしなさに渇を入れるように、勢いよく立ち上がった。
    「よし! マッサージで元気をもらったから、頑張りますよー!」
     
     
    アリッサが一日の後片付けをしていると、デイジーが入ってきた。
    ふたりでボソボソと密談をするその様子は
    明らかに何かが進行している事をうかがわせていたが
    何事もなく、月日は流れていった。
     
    これからもこのままが続くかのように。
     
     
    続く。
     
     
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  • ジャンル・やかた 42

    「ナポレオンが3時間しか寝ない、っていうのがわかったわー。」
    長老会会議に出席するための、移動の車の中で
    アッシュがリリーに、突然まくし立て始めた。
     
    「ナポはね、寝ないんじゃなくて、寝る時間がなかったんだよー。
     私、今ナポ並に寝てねえのよー。
     不眠症気味だから良いかあ、と、あなどってたら
     寝る時間がないのは、寝られないより辛かったんだよー。
     ピンクレディーが絶頂期の記憶がない、とか言ってたけど
     私も最近、記憶がねえのよー!
     痴呆じゃなくて、ほんと記憶がねえのよー!
     酒飲んで翌日の記憶がない、って経験した事ないけど
     あれって、こういう感覚ー?
     こんな記憶飛び飛びで、大丈夫なわけー?
     私ちゃんとやってるー?」
     
    リリーが冷静な眼差しをアッシュの方に向け、事務的に言った。
    「主様はちゃんとお仕事をやってらっしゃいます。
     かなりお疲れのようですね。
     と言っても、休みが取れるわけじゃないですから
     わたくしには同情しか出来ませんが。」
     
    「同情するなら休みくれーーー!
     とか言っても、外人のあなたにはわからないだろうけどねーっ。」
    「・・・ここでは外人はあなたの方ですが。」
     
    リリーの冷静な返答に、アッシュは叫んだ。
    「ああああああああああ、愛が欲ちーーーーーーーーーーーっ!」
     
     
    運転手の不安そうな目が、ルームミラー越しにリリーの目と合う。
    「こんなお方でも、やる時はやりますので心配無用。」
    リリーの言葉に、運転手は慌てて前を向き直した。
     
    「助けてーーーーーーーー! 拉致されるーーーーーーーーー!」
    車の窓に両手を押し付けて、アッシュが叫ぶ。
    「こらっ! その冗談はダメです!」
    リリーが、アッシュの首根っこを引っ張ってシートに押さえ付けた。
     
     
    「いっその事、長老たち、殺っちゃおうかー・・・
     いや、そんな一瞬で終わらせてあげるなんて、ナマぬるいー。
     そうだ、長老たちも館に住まわせれば良いんだよー。
     あいつら遠くからグダグダ言うだけで、ほんと気楽で良いよなー。
     私なんか毎日、監視の目に晒されて、秒ごとに神経がすり減って
     ついでに寿命もすり減って
     ああー・・・、主になっても結局、生死の境には変わりねえんかよー。」
     
    アッシュはしばらく、ウダウダとグチを言っていたが
    やっと静かになったと思ったら、代わりにギリギリという轟音が車に響いた。
    見ると、爆睡して歯軋りをしている。
    歯軋りの音というのは、結構デカい。 しかも癇に障る。
     
    まったく、起きてても寝ててもうるさい・・・
    リリーと運転手は、また目が合った。
     
     
    その日の長老会会議では、より一層発奮したアッシュが
    狂乱にも近い演説をブチ上げた。
     
    ジジイがリリーにコソッと訊ねる。
    「どうしたんじゃね? 今日は。」
    「ナポレオン様のうっ憤晴らしですわ。」
    クールに答えるリリーの顔を、ジジイが???と見つめた。
     
    まあ、あの妙な迫力が人心を惑わせるんだから、主様も大したお方よね
    リリーは、これっぽっちも心配をしていなかった。
     
     
    帰りの車の中では、行きとうって変わって落ち込んだアッシュがいた。
    「何か言い過ぎた気がするーーー・・・。」
    そしてノートパソコンを打っているリリーにすがりつく。
    「ね、私、マズかったかなー?」
     
    リリーはモニターを見たまま、答える。
    「あれで良いと思います。」
    「ほんとー? ほんとーーーの事言ってー! お願いー!」
    しつこいアッシュに、リリーは同じ口調を繰り返した。
    「あれで良いと思います。」
     
    これ以上食い下がると、リリーが激怒し始める予感がしたので
    アッシュは反対側の窓に顔をくっ付けて、無言で景色を眺め始めた。
     
     
    数分後には、またキリキリキリキリ・・・と軋りだした。
    リリーと運転手は、またまた目が合った。
     
     
    続く。
     
     
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          ジャンル・やかた 43 10.1.12

  • ジャンル・やかた 41

    「痛いのダメー! 痛いの絶対にダメよー?」
    アッシュがベッドに横たわりながら、怯えて叫ぶ。

    「はいはい、わかってるだよ、主様。
     わしにまかせてくだせえな。」
    指をバキボキ鳴らす巨体の女性に、アッシュが後ずさりをする。

    数十分後、アッシュはベッドの上で溶けていた。
    「うあーーー、気持ち良かったーーー、最高ーーーーー!」

    「でしょう? アリッサはちゃんと免許も持ってるんですよ。」
    デイジーがアッシュに靴を履かせながら、自慢げに言う。
    「うんうん、もう久々に極楽な気分になれたよー、ありがとうー。」

    何のエロ話の始まりか? という出だしだが
    毎日のデスクワークに音を上げたアッシュが、わめいたのだ。
    「誰かマッサージとか出来ないですかあー?
     もう、肩とか首とか腰とか、痛くて痛くてー。」

    「あ、私の友人に整体師がいます!」
    と名乗りを上げたのがデイジーであった。

    「主様、かなりからだがゆがんでいるだよ。
     これからちょっとでもいいから、まいにちマッサージをつづけるだよ。」
    アリッサが言うと、デイジーが強い口調で後押しした。
    「そうですよ! 健康管理もちゃんとしてください!
     主様に何かあると、皆が悲しみます。
     おひとりの体じゃないんですよ!」

    デイジーの熱意にゲンナリしつつも、アッシュも肩の軽さに負けて同意した。
    「じゃあ、これから毎日お願いしますー。」

    アッシュが整体室を出て行った後
    デイジーとアリッサは手を取り合って喜んだ。
    「良かったわね、主様に気に入られたわよ。」
    「主様にはじめてあえて、わしドキドキしただよー。」

    アリッサもデイジーと同様に、アッシュの信奉者だった。
    アッシュは皆に公平に接する代わりに、誰とも親密にならなかった。
    秘書のリリーと護衛のローズは、職務上例外であった。

    「だけどほんとにやせていらっしゃったで、わしビックリしただよ。
     ここんとこは、とくにいそがしそうにしてらっしゃるとうわさだんが
     あんなほそいおからだでだいじょうぶだかねえ。」
    「そうなのよ・・・。
     前々からお忙しく動いていらっしゃってたんだけど
     あの銃撃事件以来、益々大変そうになったのに
     この頃は食欲まで落ちちゃって、もう心配で・・・。」

    「あのバカモノのせいで、ストレスになっているだね!
     主様がやかたをすみやすくしようと、がんばってらっしゃるだに
     なんのもんくがあるんやら、まったくめいわくだよ。
     主様がいなくなったら、またもとのゴロツキぐらしになるじゃないか。
     まったく、へいわなくらしがイヤならここをでてきゃいいだよ!」
    アリッサが憤慨すると、デイジーが更に追い討ちをかける事を言った。

    「ほんと、そう思うわ!
     襲撃したヤツは死んだらしいけど
     同じような事を考えてるヤツらは、まだいるらしいのよ。」
    それを聞いて、益々頭に血が上るアリッサ。

    「あの主様に、ゆるせないだね!」
     そんなヤツら、わしがせいばいしてやるだ!」
    デイジーはアリッサの両手を握った。
    「あたしたちも館のために頑張らないとね。」

    悪気のない自己流正義感というものほど、厄介なものはないわけで。
    このふたりの館への想いが、アッシュの運命を変えるものになるとは
    誰ひとり気付く者はいなかった。

    続く。

    関連記事: ジャンル・やかた 40 09.12.25
             ジャンル・やかた 42 10.1.7

  • ジャンル・やかた 40

    銃撃事件から、後始末に追われる日々が続いた。
    事件の方は、以前のように 内々に “処理” された。

    親しい者が身代わりになったと言う事で
    長老会は比較的アッシュに同情的ではあったが
    やはり館の住人は、一旦切れると何をするかわからない
    という不信感が、上の方で広がってしまったのである。

    アッシュは、反抗的な住人を早くどうにかしろ
    と長老会会議で度々突き上げられていた。
    その方法を長老会のお歴々のメンバーと話し合うも
    メンバーは何ひとつ知恵が出せない、という有り様である。

    会議に出れば吊るし上げられ、館に戻れば周囲が暗殺を警戒する
    ピリピリする空気の中、バイオラの死に責任を感じ
    一時たりとも気の休まる事がない日々が続いた。

    ジジイは長老会とアッシュとのパイプ役を、見事にこなしていたが
    自分が長く務めすぎたせいもあって
    今の長老会には、主経験者がジジイ以外にいないのが難点であった。

    あそこは経験しなきゃわからん事も多いんじゃ
    データや報告書だけでは判断など出来ぬぞ
    ジジイは常々メンバーを、そうたしなめていた。

    それは長老会の面々も自覚していたので
    ジジイの言葉には信頼が置かれていたが
    やはり想像以上の現実が、長老会を混乱させていた。

    そもそも、“コト” が起きた時の隠蔽にだけ動いてきた長老会が
    館の運営にこれほどまでに首を突っ込むのも、初めての事だったのだ。

    リリーは会議の準備に奔走する中、情報集めをしていた。
    館の電気関係に勤務する住人たちは、長老会所属であり
    同じく “外から来た住人” であるリリーとは、同胞である。

    モニタールームに詰めている職員に、住人たちの動きを探らせ
    誰が反抗的な意識を持っているのか、不穏な動きはないか
    つぶさにチェックさせていた。

    ローズは “護衛” の肩書きを、名実ともに不動のものにしていた。
    相続達成サポートの見返りに好きな地位を、のお達しに
    「これまでと同じでいいよ。」 と、答えたのは
    リリーと一緒に秘書をやるには、頭がない自分が
    自然にアッシュの側にいられる唯一の職だからである。

    その肩書きは、ローズの腕からしても誰もが納得するものだったが
    戦いのない館になるのだから、閑職も同然のはずだった。

    あたしも平和ボケしちゃってたね・・・
    自分が気を緩めずに役目を果たしていたら、バイオラも死なずに済んだのだ
    と、ローズもアッシュと同様に自分を責めていたのだ。

    アッシュの書斎の隣にある護衛控え室には、アッシュのタイムテーブルや
    住人たちの顔写真つき履歴リストを用意した。
    ホルダーにハンドガンを入れつつも
    やっぱりあたしにゃこれだよね、と大鋏をベルトに差し込んだ。

    デイジーはアッシュの食器を下げながら、憂うつな気分だった。
    アッシュの食欲が落ちているのである。
    あんなに痩せてらっしゃるのに、これ以上食欲が落ちていったら
    お体が心配でたまらないわ・・・。 ただでさえ激務なのに・・・
    デイジーは重い足取りで厨房に向かう。

    「あれ、また主様はこんなに残しなさって・・・。」
    厨房の女性が声を上げる。
    「そうなのよ・・・、もう心配で心配で・・・。」
    キレイに残っている皿の上の料理を見て、デイジーは溜め息を付いた。

    「以前は食堂に来てくださってたのに、あの事件以来止められてるらしいし
     主様のお姿が見えないと、皆も寂しいよねえ。」
    厨房の女性の言う通り、襲撃事件からの警備の強化のせいで
    アッシュは以前ほど自由にウロつけなくなっていた。

    皆で仲良く平和にやれ始めていたのに、一部の人のせいで!
    デイジーは、激しい怒りを覚えた。

    そんな中、アッシュは館にいる間のほとんどの時間を勉強に費やしていた。
    これまで以上に、演説に力を入れなければ!
    そう考えたアッシュがネットで調べていたのは
    「小論文の書き方」 であった。

    おいおい、アッシュ、大丈夫かその方向性で???

    続く。

    関連記事: ジャンル・やかた 39 09.12.22
          ジャンル・やかた 41 10.1.5

  • ジャンル・やかた 39

    すべての関係者が想像していたのと違って
    ゆっくりだけど、順調にきていた館の改革だが
    やはり悲劇は起こってしまった。

    不穏分子のひとりが、行動に出たのである。
    数m前に立ちはだかった男が握った銃を見て
    アッシュはそれが何か、すぐにはわからなかった。
    本物の銃など、触るどころか見た事すらなかったからだ。 日本人だもの

    「おまえさえいなければ」
    歪んだ表情で怒鳴りながら、男がアッシュに真っ直ぐと銃を向けた瞬間
    パンと爆竹のような軽い音が鳴り、アッシュは左肩に衝撃を感じた。

    う、撃たれた? と、恐怖に目を上げると
    ローズが男に駆け寄って殴り倒し、周囲の人間が男に蹴りかかり
    それがすべてスローモーションで展開されていた。

    女性たちが叫びながら、アッシュの元に駆け寄る。
    デイジーが泣き喚きながら、アッシュを抱き起こす。
    アッシュは花壇に倒れ込み、ブロックで左肩を強打していたのだった。
    そしてアッシュの傍らには、顔面を血に染めたバイオラが倒れていた。

    葬儀はしめやかに行われた。
    館の敷地内にある墓地の明るい一角に、バイオラは埋葬された。
    アッシュがこの館に来て、4年目が過ぎたという頃で
    墓地は色とりどりの花々が咲き誇り、蝶が舞っている。
    気持ちの良い風が吹く5月の正午の光が、バイオラの墓標を輝かせていた。

    葬儀の帰りに、初めてグレーの墓にも寄った。
    異国の相続失敗者なのに、こんな立派な墓石まで立ててもらって・・・。
    目を閉じて両手を合わせて祈り
    顔を上げると、隣にジジイとリリーが立っていた。

    「わたくしは、この隣に眠らせてくださいね。」
    当初リリーは、アッシュの地位が安定したら辞めるつもりだった。
    それをジジイには言っていたので、この言葉にジジイは驚いた。
    そうか、こやつもここに骨を埋める決意をしたんじゃな。

    涙の跡が残るアッシュの横顔を見つめて、ジジイは心の中で励ました。
    アッシュよ、あんたはひとりじゃないぞ
    背中を優しくポンポンと叩いてくれたジジイの意を
    アッシュは珍しく敏感にくみ取っていた。

    その日の演説で、アッシュは怒鳴り狂った。
    何故こんな悲劇が繰り返されるのか
    それを止めるにはどうすればいいのか
    これはひとりの罪じゃなく、皆の罪なのだ
    涙を流しながら、心を絞るように叫ぶアッシュのその姿は
    まるで鬼神のようで、見ていた者は恐怖すら感じた。

    最後にアッシュは、静かに語りかけた。
    「私に異がある時は、どうか言葉で表わしてくださいー。
     意見が違うというのは、決して悪い関係ではないのですー。
     色々な感覚がないと、この世界は止まってしまいますー。
     どうか皆さん、自分の気持ちを大切にし
     それを私にも伝えてくださいー。」

    講堂はようやく安堵に包まれたが、アッシュの腹の中は煮えたぎっていた。
    何が意見だよ! 無法者の自分勝手な言い草だろうが!
    言いたい事があるなら来てみろよ、全力で洗脳したるよ!!!

    罵詈雑言を脳内で叫ぶも、アッシュは楚々と涙を拭いつつ
    弱々しげな被害者ヅラを演出しながら、壇上を降りた。

    その夜、アッシュは眠れなかった。
    こういう時は、いつもローズの部屋に行く。
    護衛のローズの寝室は、アッシュの寝室とドア続きになっている。

    ドアを開けると、目の前にローズが立っていて
    お互いに驚いて、うわっと悲鳴を上げた。
    「前にもこういう事があったよね。」
    アッシュも丁度それを思い出したところだったので、ふたりで笑った。

    「お茶とクッキーはどうだい?」
    「食べちゃいけない時間ほど、美味いと思えるんですよねー。」
    キャッキャとふたりではしゃいで、ベッドの上でお茶をする。
    「まったく、行儀が悪いったらないねえ。」
    「たまには良いじゃないですかー。」
    ふたりで肩を寄せ合い、クスクスと笑う。

    「でね、その時にバイオラが言ったのさ。
     『あたしゃ鍋は作れてもパイは作れないんだよ』 ってね。」
    真夜中なので大声は出せず、ふたりで腹を抱えて息を殺して笑う。
    かと言えば、急にしんみりした気分になり、抱き合って忍び泣く。
    妙なハイテンションで、爆笑と号泣を繰り返し、一晩中語り合った。

    こういう時の月は、何故いつも丸くて美しいのか。
    月明かりに浮かび上がるベッドの上のふたりの影は
    まるで月にいるうさぎのようであった。

    しばらくその月を見上げていたふたりだったが
    長い沈黙の後、月を見つめたままローズがつぶやくように言った。
    「これでもう、あたしの家族はあんただけになっちゃったよ・・・。」

    アッシュも同じ気持ちだった。
    ふたりの最後の血縁は、墓地に眠っている。

    「あんたは、もうあたしの部屋に来ちゃいけないよ。
     これからは、ふたりだけではいないようにしよう。
     あんたは、皆の主にならなければいけない。」
    「うん・・・。」

    アッシュが素直に同意したのは、自信があったからである。
    ふたりの関係は、今後何があっても揺らがない。

    罪悪感に押し潰されそうになり、不安で眠れない夜は
    いつもローズの部屋に夜中に行っては泣いていた。
    ローズは起きているのか寝ているのか
    何を言うでもなく、ただそこにいてくれた。
    この時間があったからこそ、アッシュは人前で平静を保てていた。

    だけどローズが生きてくれてるだけで良い
    アッシュは、それだけでやっていける、と確信していた。

    風に散る桜の花びらのように、光の粒が舞い降りる
    そんな幻のようなきらめきの月の夜だった。

    ふたりが最後に一緒に過ごしたのは、永遠を知った一瞬であった。

    続く。

    関連記事: ジャンル・やかた 38 09.12.18
          ジャンル・やかた 40 09.12.25