カテゴリー: 世情分析

  • チャイム

    ピンポーン、って、この音が大嫌いである。
    TVで鳴ってもドキッとするので
    来客シーンのCMなど作らないでもらいたい、と心底願う。

    “ピンポーン” という音限定じゃなく、来客の合図自体がイヤなのだが
    このピンポーンという音、見事に神経に響く音で、恐怖倍増である。
    でもチャイムの設定音が、“ヘロヘロボニョーン” とかいう音だったら
    それで驚いて心臓が止まった場合には、あまりに情けないので
    チャイム音は、“ピンポーン” にしといて正解なのかも知れない。

    何故チャイムの音が大嫌いなのかと言うと
    それは、イヤな想いをする応答の始まりの合図だからなのだ。

    友人なら、必ず事前にメールなり電話なりがある。
    突然の訪問は滅多にない。
    宅配だったら、インターホンに出てホッとする。
    問題は、勧誘なのだ。

    訪問販売で物を買う事などありえない。
    ほぼすべてがロクでもねえ付加価値 (高値、粗悪、マルチ、詐欺、等)
    が付いた物であるし、どんなに良い物だったとしても
    選択の出来ない訪販で買う必要がどこにあるんだろう。

    訪販でなければ、宗教、ヘンなボランティアである。
    世の中何でこんなに、わけわからん宗教が多いんだろう
    とウンザリするぐらい、多種多様な宗教の布教がやってくるが
    最初の言葉だけで、どこの団体かわかるようになってしまった。
    て言うか、姿だけでわかるところもある。

    小さい子供を連れている場合もあり、それを見る度に
    親は心の底から子供のためを思い、良かれとやっている事なんだろうけど
    幼子は親の嗜好には無条件で従うしかないんだな、と悲しくなる。

    うちの両親は、極端でしかも正反対な思想の持ち主だったが
    私が成長して自分から訊かない限り、思想関連の話はせず
    それが当たり前なんだろうけど、宗教勧誘のそういう状況に度々遭遇すると
    えれえ良い親の部類に入るような気がしてならない。

    呼んでない相手からの話を聞く事はないし
    絶対に財布も心も開かないので (ここで下ネタも言いたいが自粛)
    ほんっっっと時間のムダ以外のなにものでもないので
    ハナから来ないで欲しいんだが、その有効策が見つからない。

    「訪販勧誘お断り」 のプレートは
    逆に “断れない人” と見なされて、標的になるらしい。
    断れないどころか、相手の話をさえぎって
    すいませんすいませんうちにはひつようないんですすいませんしつれいいたしますおつかれさまです
    と、言ってインターホンの受話器を置いているんで
    絶対に実らない勧誘だと最初に知らせておくのは
    相手にとってもロスを省けて合理的だと思うんだがなあ。

    何を言われても、「すいません」 をはさんで断るのは
    妙な断り方をすると、嫌がらせをされる場合もあるらしいからだ。
    それでなくとも、ロクでもねえ事をやってるヤツってロクでもねえんで
    どういうキレ方をされるかわからんだろう。
    下出下出に出つつも、きっぱりシャットアウトしたいんだ。

    今のところ、完全撃退は出来ているけど
    「いいから玄関に出てきてよ」「何で話を聞くすらしないの?」
    「新聞も読まないなんて、あんた知○お○れなの?」
    などと言うヤツもたまにいて、勝手に押しかけてきたあげくに
    人に嫌な想いをさせる言葉を投げつけるなど、まさにロクデナシの証明だ。
    目的はともかく、結果の言動は決して “仕事” とは言えないぜ。
    こんなんに当たった日は、一日気分が上がらない。

    なるべく覗き穴で確認するようにはしたけど
    あのドアスコープだっけ? 覗くのって恐くねえ?
    覗いたところをプシュッと撃たれたり (映画の観すぎ)
    長髪黒髪ワンピースの女の子が立っていたり (ホラーの観すぎ)。

    てか、スコープ、天候によって曇るよな。
    カメラでも設置しようかとも考えたけど
    ほんと何をするにしても財布のダイエットに繋がるんだよなあ。

    いっそネームプレートに、BとかKとかマジックで書こうかと。
    (記号や数字は、訪販仲間内での暗号らしい。
     統一はされてないらしいんで、地域によって通用しない場合もあり
     また、まだそういう手が使われているのかもわからない。
     ちなみに、Bはヤ○ザ、Kはキ○ガイだと聞いた事がある。)

    なお、まともな訪問販売の人もいるかも知れず
    そういう人たちには申し訳ないけれど、こういうのがはびこっているから、
    私は呼んでいない訪問者は全員、歓迎をしない。

  • 初対面のお世辞

    初対面で相手を褒めなきゃいけない、って人は結構いるようで
    自画自賛を生業としている私の
    他人から褒められた時の正しい態度としては
    “素直に喜んで浮かれていれば良い” である。

    お世辞の内容について、深く考え込む必要などなく
    それを言ってくれる気持ちに対しての感謝のみ、すべきだと思っているが
    どうにも奥が深すぎて、動揺する事もいまだに多々ある。

    お世辞というのは、外したらその後が悲惨な人間模様になるので
    慎重に褒めるべき事柄を決定せねばならない。
    一番ラクなのが、外見が整っている相手。
    顔なり体型なりが良い場合が、一番楽勝である。
    言われる側も、言われ慣れているので
    実にサラッとスムーズに、初対面の儀式が終わる。

    しかし、たまに意外な部分を突いてくる人がいて
    思わず 「ええっ?」 と、聞き返した時もあった。

    何を言われて 「ええっ?」 だったのかっちゅうと
    「美人ね」「おキレイですね」 系。
    その他の違う褒めパターンは、それもアリかな? と思わんでもないのだが
    これはさすがに、あまりに意外な言葉すぎるので
    この人は目が曇っているのか、感性が変わっているのか
    顔のつくりが、じゃなく、また別の意味があるのか
    その意は深いのか浅いのか、それとも悪意なのか
    一瞬でこれだけの思考が脳内の駆け巡り、動揺して
    とっさに 「ええっ?」 と返してしまったのだ。

    私なんて、ナイスバディという、とてもわかりやすい長所を持っているんで
    褒め場を探さなくて済む事を、ありがたがってほしいぐらいなのに
    人と違う事を言いたいのか何なのか
    そこをすっ飛ばして、違う部分を持ってくるのは
    お互いの事を考えた礼儀ではなく
    とにかく “お世辞” を言いたいだけなんだろうか?

    社交辞令の儀など、奇をてらわずにさっさと終わらせれば良いものを
    てか、そんなもん、なくても何の支障もないと言うに
    相手の “まずは、とりあえず” に付き合わされた上に
    びっくり仰天させられるなど、とんだ踏んだり蹴ったりだと思うぜ。

    ところで、言われても真に受けない方が良い言葉は
    「肌がキレイですね」 と、「お若いですね」。
    この2つは、歳を取れば取るほど言われる回数が増える。
    つまり、ババアの烙印を押されたも同然な諸刃の剣なのだ。

    よーく考えてみい?
    美人にあえてこういう事を言う必要もないだろ?
    顔のつくりを褒めるついでならともかくも
    しかも肌なんて、初対面じゃそうじっくりも見ないのに
    つくりという主役を差し置いて、何で脇をまず褒めにゃならんのだ?
    そんで、幼児を 「若い」 なんて思うか?
    高校生を若いと褒めるのも失笑ものだぜ。

    要するにこの2つの言葉は、他に褒める場所がない時に使われるのだ。
    そりゃ、見るからに当てはまらない人は言われない
    という救いはあるんだけど、人、結構ムチャ言うぜ?
    それでなくとも普通レベルだと、大抵はこれで回避されるので
    真に受けて勘違いするのは、悲劇の元だろう。

    自画自賛にまみれている私だが、その自賛の冒頭には
    かっこ付きで、“私にしては”“同年代の平均よりは” が隠れていて
    実は割りかし冷静に自分を見ている部分もあり
    最近は自分を褒めるネタを、無理矢理ひねり出さなければならない有り様で
    お世辞を言う人の気持ちがちょっとわかってきたから
    この2つの言葉が持つカラクリにも気付けたのだ。

    男性の場合のチェックワードは、「優しそう」。
    これは、箸にも棒にも引っ掛からん場合に
    強引に、“内面の良さ” という印籠を出しているわけだ。

    ものすげえ鬼のような言い様だけど
    まあ、本気のお世辞なら、初対面に限っては外見のみの評価が多いから
    「良い人」 系の言葉は、ガックリして正解だと思う。

    と言っても、私は内面褒め系は一切されないので
    性格の悪さがどんだけツラに出てるんか、我ながら恐ろしく
    それに比べたら内面が褒められるのも、そう悪い事ではないのかも知れん。

    お世辞自体は礼儀の一環として、否定はしないが
    褒めるのがヘタな人は、無理にそれをする必要はないと思う。
    お世辞に大した意味はない、とはわかってはいるけど
    初対面であまりに妙な事を言われると
    それ以降、その人の言動に何となく注意をするようになるからだ。

    私は本気の褒めしか言わないようにしている。
    後々のつじつま合わせで、絶対にボロを出してしまうであろう
    という恐怖には逆らえんのだ。

  • 連帯責任

    「7代末まで祟ってやる」
    祟られる時に、このセリフを言われるわけだが
    先祖の中の、たったひとりのアホウのせいで
    子孫にとっては、身に覚えのない事なのに
    わけわからん不運や、えれえな苦労をしょいこまされ
    ほんと祟りって不条理な事だよな、と思う。
    が、これ、ものすごい真理を隠し持っている気がする。

    たとえば、日本を知らない外国の地に日本人が初めて行ったとする。
    そいつが日本でもありえないほどのドグラで
    ロクでもねえ事をして、周囲の人々に嫌われたら
    その地では、「日本人は最低だ」 という認識になってしまうだろ。

    次にまた日本人がその地に行く。
    そいつは平均的な日本人だとしても
    普通の言動をしていても、周囲には信用されない。
    何故ならば、その地域の人々には
    最初に来たドグラが、“日本人” だと印象付けられているからだ。

    2人目が頑張って、周囲に受け入れられても
    「こいつは日本人なのに良いヤツだ。」
    と、2人目個人の評価になってしまい
    まだ “日本人” そのものの悪印象は拭えない。

    3人目、4人目と行き、2人目と同じように
    せんで良い努力までして受け入れられて、やっと5人目ぐらいで
    「あれ? 1人目がヒドかっただけで
     日本人は実は良いヤツらだったのか?
     確かにうちの国にも、たまに悪いヤツもいるもんな。」 となるのだ。

    途中、日本人が集団で行って
    「日本人ってのはそうじゃない、良いヤツなんだ。」
    などと説得を試みたりしたら、反感を買い
    個人で頑張ってきた事は水の泡となるだろう。
    数に頼って、一瞬で回復しようという気持ちは
    お手軽な都合の良いものに映るので、余計に信頼を損ねるからだ。
    努力というのは、実は地道じゃないと認められない。

    これは例えようとして、私が創作した話だが
    似たような話は、現実にもゴロゴロ転がっている。
    つまり世間というものは、1発目がひどいと
    そんだけの尻拭いをしなきゃ許してはくれないものだと思う。

    親族の、民族の、仲間の、同類の、たったひとりがドバカだったせいで
    そのジャンルに属するすべてのヤツが、同じレッテルを貼られる。
    汚名を返上し、名誉を挽回しようとしたら
    自分ひとりの努力では、どうにもできないのだ。
    それこそ、7代末まで、のように。
    やったのはたったひとりなのに、だ。

    これを不条理として無視するか、変えようとするかは自由だが
    自分の後の7代が、自分と同じ不幸を味わう責任は自覚すべき。
    1代目がバカをして、2代目が償おうとする。
    しかし3代目が 「知ったこっちゃない」 と無視をしたら
    期限が延びて、9代目まで不幸になる。

    純粋な祟りなら、途中の代でどういう態度をしても
    有無を言わさず平等に霊障が襲い掛かるだろうが
    失った信頼というのは、期限延長があると思うのだ。

    だから何代目でも、元に戻そうと決心したヤツが
    「自分から数えて7代目まで、一族の未来のために礎となってくれ。
     誰かが犠牲になって頑張らないと、この不幸は永遠に続く。」
    と、自分を含めた大勢が長期間に渡って努力しないと、解決はしない。

    何が言いたいのかと言うと、時代劇系オカルト話も
    現代に通用する教訓をはらんでいるものかも知れんな
    と、TVを観ていて、ふと思っただけなんだ。

    もちろん、片方だけが悪い争いなど皆無だから
    こんな一方的な責めを負わにゃならん状況など、ありえないがな。

    しかし7代ねえ・・・、300年ぐらいか?
    最高級ランクに、「末代まで」 ってのもあるけど、すげえ持続性だよな。

  • 食料自給率

    面倒だから調べもせずに、予感だけで物を言うんで
    知ってる人がいたら、教えてほしい。
    ラクして知識を得られるに越した事はないからな。

    先日、フランスが舞台の戦争映画を観ていて、その田園地帯の風景に
    フランスってブランドイメージばかりが先行しているけど
    実は農業国だったんだよな、と思い出す。
    確か食料自給率が100%を越えていたはず。 だよな?
    日本は40%しかない。 よな?

    この “食料自給率” って、何か怪しいデータのような気がせんかあ?
    だって、フランスってケーキとワインしか飲み食いしないし
    イタリアはパスタとピザで、イギリスは紅茶とプディングで
    アメリカは牛ステーキとドーナツで生きているだろ。
    (はい、さっそく暴言が始まった。)

    飯って、基本その国で採れる作物が国土料理になったわけじゃん。
    日本だったら、米と魚と大根だよな。

    だけど、世界中の料理が簡単に自由に食べられる国って
    世界でも日本だけだと聞いた事があるんだ。
    日本ってさ、食の多様化が激しくて、家庭でも普通に外国料理を作るし
    古来からの和食なんて、逆に滅多に食わなくなってるだろ。

    という事は、日本は日本にない物が主食になってるわけで
    採れないから輸入するしかなく、これじゃ自給率は低くて当然だよな。

    今は農家さんが頑張って工夫して
    本来なら日本の風土に合わない作物も、ちょぼちょぼ作っているけど
    無理しているから、追っつくわけがないよな。

    安さを求めて、海外の低賃金に頼った食糧事情になったみたいに
    いかにも企業だけが悪いように言われているけど
    実は我々一般市民の、普段飯の選び方に問題があるんじゃないのか?
    やれ中華だ洋食だ、とバリエーションを求めすぎなんじゃないのか?

    つまり食に対する貪欲な国民性が
    食料自給率の低下を招いているんだろう。
    ソーセージとビールで暮らすドイツ人のように
    日本人も米と味噌汁で生きろ、ってこった。
    と、サラダスパゲティを食いながら思った次第だ。

    余談だけど、どっかの首脳会議で麻生首相が
    「日本は世界第2位の経済大国として」 と
    えれえ大言壮語な自画自賛をしおったが
    この “経済大国” って、消費が? 生産力が?

    大昔に習ったのだと、GNP (国民総生産) が
    世界第2位って話だったけど、それは今でもそうなんだろうか?

    確かに日本人が、9時から21時まで労働している真っ最中に
    中南米では葉っぱ吸ってレゲエレゲエ踊り狂っているし
    地中海沿岸ではシェスタとか言って昼間中寝とぼけているし
    フランスでは2時間かけて飯食ってるし
    イギりスでは1時間おきにティータイムだし
    日本以外の国って、ほんと働いていない気がする。

    で、2位って何なの? とすら思う。
    多分1位ってアメリカだろ?
    あんな、事あるごとに人権人権言って義務を果たさず
    銃ドンパチのあげくの暴動を起こしている国に負けてるなんて
    何かもう日本のシステムって、根本的に間違ってるんかも。

    と、アイスを食いながら思った次第だ。

  • メリークリスマス!

    私がこのセリフを言うって、滅多にないだろ。
    クリスマスなんて、バテレンの宗教行事ぐらいにしか思ってなく
    そういうまったく関係のない事を、何で祝わにゃならんのか
    もちろん友人知人のイベントには合わせるぐらいの
    大人の態度は示してきたんだが、自らどうのこうのはなかった私がだぞ。

    うちの家には、大抵の行事の道具があった。
    正月飾り、盆グッズ、雛人形飾り
    もちろんクリスマスツリーのオーナメントっちゅうの?
    そういう飾り物もあった。

    12月になると、村の人がモミの木を山から切ってきてくれる。
    しかし果たして九州にモミの木が生えてるんだか
    もしかして、単なる杉の木だったんかも知れん。
    とにかくそれに、母ちゃんが星だの鈴だのを飾り付けるのが
    毎年のクリスマスの恒例の用意だった。

    だが、夕飯は鍋。 酒は焼酎。
    ケーキはかろうじてあったが、貰い物のバタークリーム。
    プレゼントは、希望も何も訊かれた事もなく
    かあちゃんが愛娘に着せたい自己満足のワンピースとか
    とうちゃんがバカ娘の知能を案じての堅苦しい本とか
    しかもかあちゃん曰く、とうちゃんが頑張って働いたお金で買ったのよ
    どこぞの赤服ジジイが無償で配ってる物じゃないのよ
    とうちゃんにお礼を言いなさい、感謝しなさい、さあ頭を下げなさい、と。

    サンタの存在うんぬん以前に、このようにうちのクリスマスは、
    欲しくもない物を貰い、とうちゃんに謝意を述べる日になっておった。
    そんな家の子供にとっては、一体何の楽しい事があろうか。

    と言っても、当時の私に 「何が欲しい?」 と訊いても
    「チョコボール」 とか答えるアホガキだったので
    訊ね甲斐も贈り甲斐もなかったであろう。
    今なら体裁の付く欲しい物を即座に言えるのだが
    もちろん化粧品で、色番指定までするので
    それはそれで、贈る側は単なる使いっ走りに感じるだけだろうな。

    まったく他意はないが、欲しい物を一応書いておくと
    ゲランのラディアントシャドウカラーパレットという
    4色アイシャドウセットのブロンズドレっちゅう色が欲しい。

    これさ、たかがアイシャドウのくせに8000円するんだよー。
    貧乏人がそんなんホイホイ買えんだろ。
    高いアイカラーを塗ったくっても、どうせキレイにも何にもならん
    という心のサイドブレーキが利きまくって、売り場に行く気も起きないんで誰かが善意のみでポッとくれたらそりゃ嬉しいなあ。 ぐへへ

    でも正直、贈り物は面倒くせえ。
    貰いっ放しじゃ、大人として外道なやらずぶったくりなので
    それ相応のお返しもせにゃならんから、そういう事を考えたら
    欲しい物は自分でさっさと買う方が、よっぽど安くつくってもんだ。

    こういう感覚だから、潤いのない人生になってしまうんかも知れんが
    近所の人の自家栽培の白菜のお裾分けのお礼に
    ケーキを買って持って行く時なんか、こういう疑問が生じんか?
    ケーキ4~5個の値段 > 白菜1玉のスーパーの売値

    ああ・・・、そうだったな。
    プレゼントとお裾分けは違うよな。
    クリスマスのプレゼントは、親しい人たちの愛情のやり取りだもんな。
    近年そういう心温まるイベントがないもんで
    贈り物と聞くと、お中元お歳暮ぐらいしか思い浮かばなかったぜ。

    さて、私の寒々しいプライベートの事情が露呈したところで
    何で今年は 「メリークリスマス!」 なのか?

    2行で言えば、風邪 + 大掃除 でおおごとで
    切支丹の行事にまで噛み付いている余裕がない、って話だな。

    世間の人々は、年末進行は大丈夫なんか?
    浮かれ祝っているヒマはないんじゃねえの? という疑問はあるが
    皆様が楽しければわたくしはそれでよろしくてよ、ほほほ。

  • 日本名

    F1放映時は、車のCMが多いのだ。
    TOYOTAとHONDA。

    それはごく当たり前だが、観ていてふと思った。
    何でTOYOTA? 豊田じゃなくて?
    何でHONDA? 本田じゃなくて?
    考えてみれば、車種名も全部外国語である。

    そういや、最近日産にヘンな車種名が多いのは
    上層部に外国人が多くなったせいだという噂を聞いた事がある。

    どうも、どこぞの外国語で格好良い単語を車種に命名するのだけど
    それは日本語で言えば、とんだマヌケな意味だったりするらしい。

    もう、ほんとウロ覚えばかりで、そんなあいまいな話をすな! 状態だが
    どっかの飲食物を海外で売ろうとしたら
    その伝統的な名前が、そこの国では 「クソ○○」 という言葉で
    まったく売れなかった、という逸話もある。
    ようするに売りたかったら、その国の言語を考慮せえ、っちゅう話だよな。

    逆に言えば、日本車なのだから、車種名も日本語で良いはず。
    今は外国人に、日本語文字がウケている。
    知らずにタトゥーに妙な漢字を入れる気の毒な人も多いけど
    ひらがなが丸っこくて可愛い、と好む人も増えているそうだ。

    大抵はひとつの国で文章は、ひとつの種類の文字で表示するのに
    日本では漢字、カタカナ、ひらがなの3種類の文字を使い
    漢字は読み方まで何種類も存在するのが
    とても珍しがられているとも聞く。
    日本語は、発音は単純だけど読み書きが難しいんかな。

    とにかく、そんな特殊な日本語を何故日本製品の名に付けない?
    画数が多いと、外国人には単なる模様に見えてしまう恐れもあるので
    簡単な漢字とひらがなで、シンプルな字体にすれば
    日本人から見ても、「○○参上 夜露死苦!」 にはならないと思う。

    昔の軍艦だって、“大和” を筆頭とし、“赤城”“日向”“伊勢”
    戦闘機に至っては、“紫電”“隼”“雷電”“疾風” などなど
    すげえ日本名が付いていたというに
    何故今の世の中、日本製品はほとんどが外国語の名前なんだろう?

    私の知っている範囲で、日本語車種名は “オロチ” だけだが
    エンブレムは “OROCHI” だったはず。 無念・・・。

    レジェンド” は “伝説” で良いじゃん。
    車の後ろに “伝説” ってエンブレムが輝いてたら格好良いぞ。
    “クラウン” は、ひらがな混じりで “王の冠” とかどうだ?

    今や日本製品は、それだけで立派なブランドになったのに
    いつまでも外国風味を付け足さなくても良いんじゃないのか?
    これからは、もっと日本の個性を前面に押し出して
    メイドインニッポンを誇って売ってもらいたい。

    メーカーの人には、ぜひ真面目に日本語の命名を考えてほしいと願う。

    書いてて思ったけど、“日本” も “JAPAN” なんだよな。
    何で “NIPPON” じゃなくて “JAPAN” だよ?

    これはあくまで私の予想に過ぎないが
    どこぞのマルコ・ポーロという商売人が
    “ニッポン” を “ジパング” とか聞き損ねて
    母国で知ったかぶりに言いふらしたせいじゃねえのか?

    たったひとりのアホウの耳のせいで
    日本は何百年にも渡って、そして今後も
    延々とジャパンジャパン呼ばれ続ける事になるとは・・・。

    よそんちにお邪魔する時は、耳垢をほじくってから行け!

  • お盆なので、冠婚葬祭の葬のあたりの話でも。
    常識に欠けるので、用語がヘンかも知れないが
    気付いたら、私の名誉を気遣いつつ優しく注意してくれ。

    葬式と言えば、必ずショックを受けながら参列している。
    見ず知らずの人の葬式に義理出席をしていても
    “人が死ぬ” という事実に、毎回毎回衝撃を受けるのだ。
    遺族の悲しみにもらい泣きもして、結構嫌な行事である。

    特にお坊さんの読経は辛い。
    葬式中は、(たとえ自分と無関係の式でも) 常に動揺しているので
    眠くはならないのだが、ひどく退屈をする。
    動揺と退屈が同時進行するものだとは驚きだ。

    昨今は、読経もどんどん時間が短くなってきている傾向にあって
    それは全員にとって、とてもありがたい事なのだが
    もっと聴きたい! と思わせる読経が1度だけあった。

    きらびやかな袈裟を着たお坊さんが3人入場。
    一番年長のお坊さんが祭壇のまん前に座り
    そのちょっと斜め後のデカい木魚の前にもうひとりが
    最後のひとりは、木魚と反対側の斜め後にあるドラ?の前に立つ。
    ドラ?は、木魚よりも後に位置していて
    その位置配分も、何となく芸術的なバランスがある。

    あー、こっからが長いんだよなー、とダラける参列者たち。
    突然、ガアアアアアアアンと、ドラ?の大音響が響き
    会場全員がビクーーーッッッとなる。

    そして、3人のお坊さんの混声合唱。
    木魚の叩く音も大きいが、何よりそのスピードとリズムが凄かった。
    その合間合間にドラがガアアアアアンと鳴る。
    ポクポクポクガアアアン ポクポクポクガアアアンみたいに。
    こっこれはヘッドバンギングが出来るんじゃないか? というぐらいに!

    日本の音楽はリズム感がなく、間延びした曲しかない、と思っていたのが
    この3人の坊主によって覆された。
    こんなにも熱く激しいビートが、まさか仏教で!!!

    フィナーレ数十秒は、木魚とドラ?の連打。
    ガアンガアンとすごい爆音だが、読経の声も負けじと凄い声量。

    ドラ?の最後の大打撃でコンサートは終ったが
    思わずスタンディングオベーションでアンコールをしたくなったぜ。
    参列者たち全員、呆気に取られた表情だった。

    その後、参列者たちの焼香の場面では
    木魚とドラ?の担当者はいなくなり、中央のお坊さんのソロで
    他の仏教と同じような読経をしていた。

    こんな葬式は初めてだったので、もしかして新興宗教かなんかか?
    と疑い、知人に訊いてみたら、普通の昔からある仏教だった。
    あまりにも普通なので忘れたけど、天台宗か真言宗かどっちかだった。
    ああいう読経なら、また聴きたいなあ。(できれば葬式以外で)

    うちも葬式を主催した事が2度あるが
    葬式って、ほんと坊さんの晴れ舞台だよな。
    間近で見ると、あの袈裟、もんのすげえ細かい細工なんだぜ。
    金糸銀糸が織り込まれてて、さぞ重かろうが。

    今は亡きかあちゃんが、何かの時に誰かと喋っていたが
    「○○の住職さんの声は素晴らしいわ。
     △△のお坊さんは伸びがダメね。」
    と、お坊さんの読経の声の評価をしていた。

    坊さんの萌えポイントは読経の声らしい。

  • IQの真実

    最近はTVでIQテストなどが横行し
    世の人々は、「知能指数 = 頭が良い」 と、思っているが
    それはちょっと違うんじゃないか?
    と言うか、実際は逆なんじゃないか? という気がする。
    しかし現に、知能指数のランク付けには
    “天才” という言葉が使われていて、誤解を招きやすいと思う。

    では、IQには何の意味があるのか?
    ひとつ大きな特徴があると見ている。
    IQが高い = マルチタスク なのだ。
    色んな事を同時進行できるってわけ。

    だが、このマルチタスクには、ものすげえ弊害がある。
    それは集中力がない事。

    集中力のなさが何故、重大な欠陥になるのかというと
    集中力がないと、ひとつの事が長続きせず、広く浅く
    となるので、ことを大成できないのである。

    アインシュタインとかどうなんだ、と言われるだろうが
    マルチタスクゆえの可能性というのも確かにあって
    何かを考える時に、普通じゃ浮かばない、まったく関係ない
    と思われる考えも同時に脳内を巡ってて
    それが運良く符合した成功例かも知れない。
    (が、これは奇跡とも呼べるので
     アテにしてたら、人生マジもんのバクチだろう。)

    それか逆に、ひとつの事に長時間熱中し
    その間、周囲の物音など一切耳に入らないヤツもいるらしいので
    (私は噂だけで実際に出会った事はないのだが)
    成功者は長じてこのタイプかも。

    IQの数値というのは、本人にも原則未公開だが
    高IQの子供の場合、親に内々に通達がいく。
    「頑張って勉強させてくださいね」 みたいに。

    私には、これも本気で言っているとは思えない。
    教育機関も “高IQ = 頭が良い” と
    逆のデータを持っているはずだ。

    実際に、安定して “デキの良い子供” のIQ値は
    100前後だというデータが出ているという話を聞いた事がある。
    (150以上のIQは、実は正確には測定できないらしい。
     これ以上の数字は、マジで紙一重なんだと。)

    身近な例だと、私の兄は頭が固くパズルも苦手なのに、紙一重IQだ。
    見ていると、こいつもいつも複数の事を同時にしている。

    こいつのマルチタスクは、そりゃもう激しく込み入ってて
    TVを聴きながら、横に置いた雑誌を読み
    手元で作業をし、人と会話をする、という有り様である。
    そのすべての作業が、つつがなく実行されているようだが
    何かせせこましい小動物のようで、見てると気色が悪い。

    もしかして高IQとは、マルチタスクと言うより
    脳内で流れている時間の速度が違うのかも知れない、とも思う。

    このように、高IQのヤツを何人か知っているが
    皆こぞって、落ち着きがない。
    集中タイプには会った事がない。
    もう、はっきり言うと、ヘンなヤツにピンときて
    「もしかしてIQ高い?」 と聞くと、ビンゴ。

    ヘンなヤツで普通のIQは、ほぼ皆無だったので
    私には、IQの数値は “そういう” 判断に使われるという悲劇である。

    もし、皆の子供が高IQだったら、注意してあげてほしい。
    その子は普通に育てたら、バランスの悪い人間になる可能性が大きい。
    落ち着き、集中、根気を、普通の子以上に教え込んでほしいと願う。
    私の経験上のみでの偏見ではあるんだが。

    ・・・と、問題提起をして、美しく締めたかったところだが
    ここにきて、ひとつ大きな疑問が生じた。

    “天才” と称されるIQ130以上って
    確か人口の数%ぐらいしかいないはずなのに
    よく思い起こせば、私の周囲には結構いるんだよ。

    割合的にこれはありえんだろうー、と思うんで
    “自称天才” も混じっている可能性が大なんじゃないか?
    よって私の経験は台無しで、何のデータにもなりえん事に
    今! 書いてて、たった今! 気付いた次第なのだ。

    良心があるなら、全削除して他の話を書くべきだが
    ほら、老い先が短いんで、書くのに掛かった時間が惜しくていやいや私の感じた事も間違ってるかも知れんが“大” 間違いとまではいかんだろうからこういう意見もあってもいいんじゃないかとこのように年を取ると逃げ口上だけは上達してくるという良い見本になるのも老兵の使命かなとそれにしょせん私

    本当に申し訳ございませんーーー。

  • 切れる年寄り

    何だよ、私を名指しかよ! というのは被害妄想。・・・だよな?

    しかし確かに昔に比べたら、切れやすくはなっている。
    が、突っ込んで思い返すと、若い頃は穏やかだったわけではなく
    単にアホだっただけだ。

    生まれて初めて、“ムカついた” 時の事を、よく覚えている。
    小学校3年生の時の掃除の時間、教室の窓掃除をしていた時だ。
    一緒に掃除をしていたクラスメイトの女の子に、何かを注意したら
    その子に逆切れされ、罵倒されたのだ。

    その瞬間ムカッときて、次の瞬間その “ムカッ” という感情が
    何かわからず動揺し、しばらく考えて
    ああ、これが “怒り” というものなのかな、と判断し
    とても悲しくなったので、強く記憶に残っているのである。

    あの時の悲しみは、まさか怒りを感じるなんて、と
    自分がとてもイヤな人間になった気がしたせいである。

    小学校3年まで、怒りという感情を知らないなど
    どんだけ深窓のご令嬢かよ、と思われそうだが、そうではない。
    いや、深窓のご令嬢の部分は激しく肯定するが
    単に私の知能の具合が、(良く言えば) スローペースだっただけだろう。

    その後も相変わらず、あまり怒るという事もせずに生きるわけだが
    たとえば数学やらの勉強系で、“正解” がある事柄は
    今の私より、頭の回転が速かった。

    今は、九々も (マジで) 怪しくなってきているが
    怒らんで良いとこにも、秒速で沸騰する攻撃性が身に付いた。

    どっちが利口なんか、どっちもアホのような気もして、よくわからんが
    こうなるまでには、転機が2度あった。

    1度目の転機は、20歳ジャストの時。
    脳内に白い霧が掛かるようになり、記憶力がゴッと落ちたのである。
    その時初めて、「これが “思い出せない” という症状か!」
    と、愕然としたが、あの頃の私、甘いな!!!
    今なんか、ライターを握り締めてライターを探す日々だぜ。

    2度目の転機は結婚後、自律神経失調症とやらになった時。
    この病気、何かよくわからんのだが、中々完治せず
    ものすげえあがいていて、ある日ふと気付いた。
    自分は、怒りの大部分を “悲しみ” に変換している事を。

    性格的なものなのか、このクセは子供の頃からあったようで
    そのせいで、怒りという感情が上手く出せなかったのだろう。

    年寄りが切れやすいのは、怒りを抑える役目をする脳の何かの物質が
    老化のせいで減少していくからだそうだ。
    元から怒りが外に向かう性質の人が、切れやすくなるのかも知れない。

    こういう情報は大事だが、あまり年を取ってから知っても
    頭が固くなっていたら、受け入れる事も困難になる。
    まだ軌道修正が利く状態の時に、自分が怒りをどう処理するタイプかを
    見極めて、来るべき老後に備えておくべきだろう。

    と言っても、原因は老化だろ?
    この切れ老人の話題は、最近TVでよくやっているけど
    だったら、どうせえと? という話だよな。
    治療法とか提示せんと、煽る一方なのは間違った世論を生むと思うが。

    私が言いたいのは、怒りのエネルギーはものすごいので
    上手く変換 or 発散させないと、ストレスが自分の内側へと向かい
    心身の健康が損なわれるハメになる、って事。
    怒りの処理は、老いも若きも関係なしに人生の重大テーマだと思う。

    今んところ、私にはボケ老人フラグが立っているので、ビビり気味だが。

  • ファック!

    英語の映画や音楽って、やたら罵り言葉が出てくる。
    有名なところじゃ、「ファック」 や 「シット」 系だが
    どうも、デァム? ダァム? みたいな単語も言っている気がする。
    あっ、「ダム」 なら、パンクバンドのダムドと一緒かも!
    ああ? 調べてから書けってか? 検索してみるよ、ちっ・・・。

    ・・・・・・・・・・調査中・・・・・・・・・・・・

    (珍しく) わかった。 「DAMN」 だとさ。
    意味は、「ちくしょう」 みたいな感じらしい。
    やっぱ罵り言葉なんだな。
    私の英会話聞き取り力も、ちょっと上達した気がして嬉しい。

    調べてる途中で、英語の罵倒語集みたいなサイトも見かけたが
    英語って、ほんと罵倒する単語が多いよな。
    しかもそれを言われると、マジでムカつく地雷的存在のやつ。

    で、ふと思ったんだが、日本語でそういう単語ってあったっけ?
    誰もが、言われたら平等に腹が立つ単語。

    たとえばさ、「ファックユー」 的な意味の罵倒語はないし
    女性に対して言う 「ビッチ」 は
    日本語だと 「ヤリマン」 みたいなもんだろ?
    これを言われても、本当に自分がヤリマンじゃなければ
    大抵の女性は、言われても鼻で笑って聞き流すよな。
    逆に 「ブス」 と言われたら、ピクッとくる女性は多い。

    つまり日本語での罵倒は、人それぞれの図星を突いてないと
    罵倒にならない、って事じゃないんかな。
    十人十色のNGワードを探さなきゃならず
    いつでもどこでも通用する万能罵倒語はないと思うんだが。

    と言うか、日本では面と向かって罵倒する事自体が、あまりない。
    ケンカしても、言うのはせいぜい 「ウゼえ」 レベル。
    自分のイラつく気持ちを投げつけてるだけで
    その言葉によって、相手を真に怒らせようとはしないのが主流。

    何故そうなのかも考えてみると
    日本人はそもそも、怒りを表に出さない傾向があるので
    ケンカ用の単語が発達しなかったんではないだろうか。

    そして日本人には、“言霊” という考え方がある。
    不吉な事を口にすると、それが本当になってしまう、という恐怖。
    これが、何となく頭の隅にあるだろ。
    言葉に念がこもる、ってやつかな。
    この感覚のせいもあるかも知れない。
    よく言う、「縁起でもない」 という類の気持ち。

    英語圏の人々が、どういう心理で罵倒語を使うのかは
    日本人には理解しにくいんで、考察できないと思う。
    どうも、宗教と人種差別からきてる罵倒語が多いっぽくて
    その歴史と信仰が、日本人には別世界の出来事だからだ。

    たとえばさ
    ・・・あれ? さっき見かけたサイトが、もう見つけられないよ・・・。
    しょうがないので覚えている範囲で書くけど、各々で要確認な。

    「マザーファッカー」 という言葉は
    奴隷時代の黒人は自由なセックスが禁じられていて
    そのせいで近親相姦が多かった、という歴史からきた
    黒人への侮辱の言葉が語源、という説とか、事実だったら
    (どっかのサイトに載ってたけど、この歴史や説の真偽は未確認)
    こんな重い話がベースの言葉が、ここまで日常に浸透しているのが
    日本人にはよくわからない感覚だと思わんか?

    私が知らないだけで、日本語にもスーパ-罵倒語があるのかも知れないけど
    日本には、外国ほどのタブーがない代わりに
    絶対的な存在もまた、ないのかも知れない。

    そういう私は、日常的に 「クソ」 をよく使う。
    「あー、クソ暑いー」 とか、「このクソPCがさ」 とか。
    私の周囲の親族も友人知人も、こういう言葉遣いはしないので
    気をつけてはいるが、つい言ってしまうと即座に注意される。

    こんな言葉を一体どこで覚えたんだか。
    思い当たるのは、洋画、洋楽。

    ゲームやらマンガが教育に悪いと言われるが、映画もじゃん!!!