カテゴリー: 人生の思想

  • 支払い

    “因果応報” というのは、
    悪い事だけじゃなく
    良い事もすべて自分に返ってくる、
    という意味らしい。
    それってあるよな、と
    最近つくづく実感する。

    歳を取ると、リアリストでも
    運命やら不思議な事やらを
    否定しなくなる事が、ままあるようだが
    自分の人生を振り返ったら、
    長けりゃ長い分、経験値もあるので
    統計を取りやすいからだろうな。

     

    若い人たちに知っておいてほしいのは
    なるべく、心ない事は止めとけ
    という事。

    私の体験から言うと、若い頃は
    “自分” というのが安定していなくて
    そのために、いたらん事をしてしまう。

    無意識に人を傷付けてしまったり
    迷惑を掛けていたりするものだけど
    それ、絶対に自分に返ってくるから!

     

    清く正しいだけの人生じゃ
    つまらんと思うかも知れないけど
    後々しっぺ返しがくるのも、たまらんだろ?
    道徳とか倫理とか、よくわからなくても
    自分がされたくない事を明確にして
    それだけはしないようにしていた方が
    賢明だと思うんだ。

    まあ、されて嫌な事っていうのも
    実際にされてみないと
    わからない場合が多いから
    えらい無理な事を言ってるけど。

     

    今の私は、幸と不幸が
    4:6ぐらいだと思う。
    体調不良だったり、緑内障だったり
    騒音に悩まされていたり
    ド貧乏だったりするんで
    人には2:8ぐらいで
    不幸WINに見えるかも知れない。
    けど、因果応報を支持しているから
    自業自得の面を考慮して
    4:6なんだ。

    実際に、このぐらいの比率が
    一番良いと思う。
    幸不幸は、感じる心が決めるもので
    何が幸せで何が不幸かは
    それこそ己次第。
    ほんと、自分の人生って
    自分が決めてると思うよ。

     

    私は、人生の幸不幸の総量は
    同じだと思っているので
    100%幸せなど、ありえない。

    今100%幸せだと、逆に恐い。
    その代価を後々
    支払っていかなくてはならないからだ。

     

    人生のほぼ9割の悩みは
    お金でどうにかなると思っている。

    なのに裕福だった昔より
    クソ貧乏な今の方が幸せに感じるのは
    今の貧乏が、過去の裕福時代の
    代償だと思うし
    他の幸せが将来の負債にならないために
    ちょっとずつ支払いをしていると思えば
    多少の苦しさは諦めが付く、ってもんよ。

     

    わかりにくいだろうけど
    アホの例えで説明すると
    幸せと苦労が100万時間ずつあるとする。
    幸せな時間をいつ使うか?

    先に幸せを使ってしまうと
    残りの人生は不幸な時間しか残らない。
    だから半々で使っていこう、って事。

    私はガキの頃、ものすごく幸せだったので
    今、割と苦労しているわけだ。

    この考えが間違っていても
    不幸な事が起きた時に
    「支払っている」 と考えたら
    ちっとは気も楽になるんだよ。

     

    本来なら、すべてを良い方に受け止めて
    いつも幸せでいられるのが
    一番良いんだろう。
    だけど、そこまで人間が出来ていないから
    ちょっとした事も不幸に感じる。

    だったら、不幸に理由付けをして納得しよう
    という、愚民な私の苦肉の策なんだ
    “支払い” という考え方は。

    人間できていない人は
    ぜひ試してみて。

     

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    この揚げ、乾燥したパリパリの揚げで
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    割って味噌汁に入れると
    瞬時にフワッと膨らんで茹でいらず。
    それでいて松山揚げより
    あっさりして油っこくないんだよー。
    激しくお勧め!

  • 依存

    何に関しても、そうだと思うけど
    “依存” には、2つの側面があると思う。
     
    2つの側面・・・、板か?
    いや、板にも一応、断面というのが最低1つはあるから
    2つの側面の物体はこの世にはない、って事だよな。
     
     
    そういう、2次元ブラボー! は、どうでも良いとして
    この “どうでも良いとして” って、私の定番の前フリだよな。
    それも置いといて
     
    依存の2つの側面というのは
    “必要” と “危険”。
     
     
    たとえば恋愛の話とかで、私が常に気になるのは
    人に依存するのが悪い、という感覚。
     
    私は古い人間なので、女性が男性に依存をするのは当然と思うんだ。
    むしろ、アメリカのウーマンリブがヘンな形で日本に輸入されて
    “女性の自立” を促したからこその、今の少子化だとも思っている。
     
    島国日本では、親族も依存し合うなら
    ご近所も依存する、正に “村社会” だったのに
    自立をする = 人に頼らない → 自分だけでどうにかする
    で、核家族社会の出来上がり。
    老人の行き場がない社会に。
     
     
    もうひとつ、親の経済力への依存。
    これは “先祖代々” なら、当たり前の事。
     
    とうちゃんかあちゃんが美男美女だったんで、美しく生まれるのと
    何も変わらない気がする。
    良い物を受け継ぐ、という点では。
     
    親に経済的に助けてもらうのを、ものすごくさげすむ人がいるけど
    親からむしり取るなら、そりゃいかんが
    してあげたい親もいるもので、その家にはその家の流儀があるのだ。
     
    そして、この “親の経済力” というのも
    良し悪しあって、本家だったら守らねばならないものがあって
    何代も続いてきたものを、自分の代で終わらせるわけにはいかない
    という重責が付きまとう。
    皇族が良い例だろ。
     
     
    “男”“女” の違いって、歴然とあるんで
    私に文句を言われても、あらあらまあまあで困るだけだぞ。
     
    て言うか、日本は昔から比較的女性の権利を認めてた国だと思う。
    奴隷だの付属品だのやってたのは、外国人。
    そういう違う意識の国の常識を、日本に持ち込むのが間違っている。
     
    日本の男性は、武士道に代表される “責任感” があったのに
    それを台無しにしたのは、頼らなくなった女性のせいだと思う。
     
    女性は密かに逃げ道 (特に経済的な事) は用意しといて
    男性に依存するのが、お互いの幸せだという気がするなあ。
     
    ここらへんの私説は、カテゴリー 世情分析や政治で語ってるんで
    そっちを読んでほしいのは、自分の言った事を忘れとるからだ。
    今のところ、大筋では変わってないはず。
     
     
    依存のもうひとつの面。
    中毒性があるものって、世の中に色々ある。
     
    酒、タバコ、ギャンブル、麻薬、もろもろ。
    そういう代表的なものの他に、私が経験して怪しい、と思うのは
    コーラ、ガム、ミント、砂糖、コーヒー。
     
    禁煙をして気付いたんだけど、タバコを止めるには
    私の場合、代替行為が必要だった。
    ニコチンの中毒は3日で抜けたからである。
     
    一般に出回ってるもので、中毒性のある事柄の毒の強さはそうでもなくて
    問題は、それに対する “依存” なんじゃないか?
     
     
    私が脱した中毒と見なされる事は
    タバコ、ガム、ミント、コーラだった。
     
    これらは中毒性は決して強くないと思う。
    て言うか、タバコ以外は中毒性すら認められてない。
     
    でも、これらの行為に共通点があるよな。
    それは、“口” を使う行為。
     
    普通の人なら、まずこっから一気に下ネタにいくところだが
    高潔な私は、それをしない。
    てか、“ろ” じゃねえぞ、“くち” だぞ。
     
     
    私が禁煙で苦労したのは、間が持たない事だった。
    それを特別な私ヴェルタース略で、禁煙太りになったんだがな。
     
    この体験から、中毒は治せるけど
    依存は治らないんじゃないか? と思ったのだ。
    だって今でもタバコの代わりに、何か食ってるもん。
     
     
    そして、多くの依存は口によるもの。
    それが母親のおっぱいを吸う代替行為だとしたら
    もし生きるための栄養は全部、注射とかで済ませられる時代がきても
    人間は、一生口を使う事を止められないような気がする。
     
    食う、飲む、吸う、喋る、歌う
    人には何よりも口が必要なのかも知れない。
     
     
    依存は割に大事かもよ。
     
     
     

    評価:

    カンロ


    ¥ 1,200

    コメント:濃厚な甘みと塩けで、特別なヴェルタースをも押しのけ、キャラメルキャンディーのトップに君臨した! と私比で思う。 その分、カロリーもものすごいので用法用量には充分に留意するようにな。 ヘンな味を増やさんと、これを大事にせえよ、カンロ。 

  • 幸・不幸

    「不幸なら不幸で良いじゃん。」
    10.5.12の記事で何気なく書いて、突っ込まれた意見だが
    それから時々考えてきたんだけど、どうやらこれは私の本心である。
     
     
    元々、幸・不幸ってのがよくわからない。
    幸せだと認識している時って、後から思い起こすと
    結構な不幸のどん底だったりする場合が多いからだ。
     
    しかし私は今、かなり不幸なんだが
    どっから見ても、やっぱり不幸である。
     
    どうも、不幸は自覚できるものだが
    幸福は自己判定は出来ないもののような気がする。
     
    うん、色々あるけど結局は幸せだよね、とか
    こんなに○○できる私って幸せ とか
    突き詰めれば、生きてるだけで幸せ、とかになる。
    幸せとは、自分を納得させるための暗示のような存在ではないのか?
     
     
    私の人生上、幸せだったと言えるのは
    自分が幸せかどうか、考える知能がなかった頃である。
    良いんか悪いんか、かなりのドバカだったんで
    20歳頃までは幸せでいられた。
     
    まあ、その後病気とか色々あって
    生きる意味だの、自分の価値だのを確立したい
    とかいう、いらん知恵をつけたら
    幸せを追い求める人生になってしまった。
     
    “自分探しの旅に” とかいうアホウに
    「自分が世界のどこにいるっつんだよ? 鏡を見ろ!」
    と、常々罵倒してきたが
    そういう自分も、気付けば日常的に
    必死こいて幸せ探しをしてきたわけだ。
     
     
    悪い事に、幸せっちゅうのは探せば見つかるんだよ。
    そういうのを1つ見つけては、安心してきたんだ。
    「ないものより、あるものを数えろ」 って言うけど
    これをしてたら、幸せになんて簡単になれるんだよな。
     
    でも、あるものを数えて見つける幸せは
    既に自分が持っていたものの再確認でしかない。
    本当に幸せな人は、ないものを数えていると思う。
    もっともっと幸せを積み重ねるために。
    しかも、無意識に。
     
     
    これに気付いたら、幸せなんてレゴブロックのような気がしてきた。
    いっぱいある家は、そりゃ楽しいだろうが
    何個かなくなったって、そう支障があるわけじゃなし
    補充もできる。
     
    つまり幸・不幸なんて、無数に存在するものであって
    自分はこれ! と決定づけるものじゃないんだ。
     
    たとえ自分が不幸だと感じても
    自分のすべてが不幸なのではなく
    こことここが問題だけど、こっちは割に幸せじゃねえ?
    という判定が、正しい幸・不幸のジャッジだと思う。
     
     
    こう思ったら、幸・不幸なんてどうでも良くなったんだ。
    私の感じる不幸がヌルいものだから、こう言えるのかも知れんけど
    何をどの程度感じるか、など、個人の資質だろ。
     
    てか、幸・不幸なんて、基準がないものを題材に
    鈍感だと否定されたくないね。
     
     
    誰が言い出したんか、得体が知れないもののような気がするぞ
    “幸・不幸”。
     
    これほど、知らない方が幸せだった単語があるだろうか?
    私にはこの単語は、呪詛に思えてならない。
     
     
    で、終わろうとして、今気付いた! たった今、気付いた!
    気付くの遅すぎ新記録!!!
     
    この説には足りないものがあるんだよー。
    それは、他 人 。
     
     
    私は幼い頃から、他の人と協調しなさい、目立ったらダメ、と教わったせいで
    どうしても溶け込めない異質さを、自分の中に認識してからは
    ずっと孤独とともに生きてきた。
     
    この異質さというのが何なのか、というと
    皆は1をたくさん持ってるけど、私には1はなく2が多い、みたいな。
     
    他の人も、2はないけど1と3を多く持ってる、と
    それぞれの持ち玉みたいなんがあって
    この場では5をいっぱい持ってる方が有利だ、となったら
    皆、5を持っているフリをする。
     
    この、持っているフリってのが “協調性”。
    持ち玉の多さは、元々の資質と経験値。
    いらない玉も、絶対に持てない玉もある。
     
     
    人生って、そういうものかな、と思っていたから
    人と自分を比べる必要性がないんだ。
    だから私は、人と自分を比べない。
     
    これ、幸・不幸に、ものすごく関係してくると思う。
    幸・不幸は、他人の存在がもたらす場合が、ものすごく多い。
    不幸だ、とグチっているヤツって、必ず人と比べてるんだ。
     
     
     

    評価:

    旭食品


    ¥ 595

    コメント:♪幸せって何だっけ何だっけポンズ醤油のある事さ♪  関西人に紹介されたポンズ。 これは濃厚で柑橘の味がしっかり出ているタイプ。 値段を見よ、ポンズでは高いだろ? 関西はポンズ好きで、ものすごいこだわりがあるみたいだぞ。

  • 神様

    無宗教なので、色んな宗教に興味がある。
    人が人生を掛けて崇拝するもの、というのが不思議なのだ。
    教本などが入手できたら、そりゃもう熟読している。
     
    どうも宗教っていうのは、人間の基本の道徳を教えているようだ。
    なのに違和感が生じるのは、そこに神が存在している事で
    しかも他宗教の神を、邪神扱いする宗教が多いところである。
     
    神がいる → 自分を罰する存在がいる から
    道徳を守らないといけないのか?
    同じ人間同士の思いやり、って事じゃ弱いんだろうか?
     
    他宗教だろうが、神なら偉い存在じゃねえの?
    そこに憎しみや哀れみを感じて禁ずる、って畏れ多くねえ?
     
    こういう事ばかり気になって、“教え” がすんなり心に入らないので
    私はいまだに無宗教なのだろう。
     
     
    そんな私でも、日本の八百万の神様は何となくあがめている。
    宗教は本来、どれも同じ場所にたどり着くような気がして
    その地その人種によって形を変えているからこそ
    受け入れられているんじゃないかな、と思うんだが
    やはり日本人には、日本古来の神道が合うような気がする。
     
    八百万とは やおよろず と読んで
    本当に800万じゃなく、それだけ多い数、という意味の言葉だが
    これがものすごく、しっくりくるのである。
     
     
    例えば縁側に座って、庭を眺めてみる。
    すると足元には蟻がたくさん這い回っている。
     
    気まぐれに、砂糖を与えたり、巣に水を流し込んだりして遊ぶのは
    子ども時代の基本体験である。
    この蟻たちを人間に例えると、八百万の神々と日本人の関係に似ているのだ。
     
    人間はたくさんいる。 家もたくさんある。
    そして庭の数だけ蟻の集団がいるのだ。
    蟻と並べて考えた場合
    人間は、まるでその土地その土地を守る神様のようである。
     
    蟻はその存在に気付かず、自分の生活を一生懸命に送る。
    時に天から食い物が降ってくる事もある。
    巣を出たら、輪ゴムに囲まれている事もある。
    (蟻はゴムを嫌う、と言うので実験してみたんだけど
     フツーに輪ゴムの上をポンポン乗り越えられたよ。)
    それは全部、人間がやってる事なのだが、蟻は気付かない。
     
    靴の上をノコノコ横断する蟻もいて
    こいつが私に気付いてくれるのなら
    私はこいつを可愛がって守ってあげるのにな、と思う。
     
     
    神と人間の関係って、これじゃないのかな。
    何となくそう思ってからは、初詣は近くの神社に行って
    祈願などはせずに、神様へ挨拶をするだけにしている。
     
    たまにしか来ないくせに、来たらあれお願いこれお願いじゃ
    すげえムカつくと思わんかあ?
    神様の心の広さはわからないけど
    自分がされてイヤな事は、神様にもしたらダメだと思うんだ。
     
     
    外国の宗教のような唯一神は
    産まれた時から教え込まれていないから、にわかには信じられないけど
    空の青さや山の壮大さには、圧倒される畏怖心を持つので
    そこに神様が宿っていると言われても、自然に祈りを捧げられる。
     
    山の神様が見ていらっしゃるから、海の神様が怒っていらっしゃるから
    畏れ敬い感謝し、正しくあろうとする。
    これが日本人の信仰心じゃないかと思うんだ。
     
    そういう意味で、私には信仰心がある。
     
     
     

    評価:


    ¥ 4,980

    コメント:犯罪者の家は、ド汚いか超キレイかのどっちかだと思っている。 何事も程々が一番! 皆、年末大掃除強化期間は目前だ! 屋根がある家に住んでる事に感謝しつつ掃除しような。(えらいな低姿勢) おまけの “掃除の神様” ってのは、スポンジだってよ。

  • 見せるか 隠すか

    この問いには、私は 完!璧! な答を持っている。
     
     
    外見コンプレックス 10.6.30 に書いたように
    うちのかあちゃんの外見は特殊である。
     
    あっ、もう、こんな最終兵器を出されたら
    外見うんぬんとは言えなくなるじゃん、と思うだろ?
    まあ、聞け、更に奥の手があるんだよ、うちの無敵ママン。
     
    うちのかあちゃんの顔の肌にはな
    治療や薬の副作用で、顔全面に細かいシミがあったのだーーーっ。
    色は薄茶だけど、ダルメシアンの模様のようにビッシリと。
     
     
    たったひとつの難病で、人生のほとんどが失われるよな。
    うちのかあちゃん、悲観しても誰も責めないよな。
    腰は曲がって背は縮むわ、顔中斑点だわ
    年老いてやっと授かった子はドバカだわ。
     
    だけどかあちゃんはそれらを、ものともしなかった。
    悲しみは持っていた。
    たまに嘆く事もあった。
    だけどかあちゃんは、プライドが激しく高かったようである。
     
    ファンデを塗っても消えないシミだけど
    厚化粧をせずに、普通に塗り口紅をひく。
    きちんとした服装に、上品な言動。
     
    この気の毒な、でも教養のある老婦人をムゲに出来るのはドグラだけ
    という踏み絵になってしまったようで
    かあちゃんは、どこに行っても大事にされた。
     
     
    さあ、ここから何を学んだ?
    私はな、“思いやりの表し方” だ。
     
     
    人は、自分が良いと思った格好をすれば良いんだ。
    100%自由!
     
    こうなると逆に何を選ぶか、迷うだろ?
    だから通常はそこに、他人の目を介在させるんだよ。
     
     
    かあちゃんは、ファンデの厚塗りで模様を隠す事も出来た。
    そういう専用のメーカーもあるよ、と教えたんだけど
    かあちゃんは、あえて模様を隠そうとはしなかった。
     
    厚塗りをしていると、人は目のやり場に困る。
    そして少しでもシミが見えると、ああ、これのせいか、と同情する。
     
    かあちゃんは、最初から薄っすらとシミを出して
    “事情” を素早く提示した。
    メイクをする事で、“隠そうと努力をしている” と
    周囲にわからせたので、相手の動揺は最小限に抑えられる。
     
     
    大抵の事は、自分がしたいようにして良いんだけど
    そこで、人がどう思うかを考えると
    「自由でしょ! 迷惑は掛けていないし。」 と堂々とする人と
    「もし不愉快だったら、ごめんなさいね。」 という態度の人、
    どちらに好感を持つ?
     
    かあちゃんは、シミを隠す気はなかったんだけど
    “相対すれば、嫌でも自分のシミを見なければならない周囲の人”
    に対する気遣いとして
    “ファンデを塗って隠そうとした努力” を表現していたのである。
     
    病気になった人には罪はないけど、病気になっていない人にも罪はないのよ。
    周囲の人に、必要以上に気を回させないためには
    最初に 「ごめんなさいね」 と言葉なり態度なりで
    さりげなく伝えておけば、お互いにさっさとラクになれるのよ。
    この “ごめんなさい” は、礼儀よ。
    悪くないから謝らない?
    ああ、どっかの国の人がそんな事をよく言ってたわね、ほほ。
           
           by かあちゃん
     
    相変わらず、いらん一言がくっついとるが
    そうでなきゃ、私もこんな娘に育たなかったわけで。
     
     
    見せるか? 隠すか?
    答えよう。
     
     見せるにしても隠すにしても、隠すフリをせえ
     
    見せたいんなら、隠してるんだけどあらついうっかり
    隠すんなら、実は隠してるんだよと無言のアピールをしながら。
     
     
    この “隠すフリ”、○○するフリ、
    人生の色んなところで、摩擦解消の有効な手段になるんで
    上手く “フリ” を出来る人間になってほしい。
     
    隠すフリは、隠す気がなくてもポーズする事。
    つまり、それは紛れもない “思いやり”。
    このひと手間を惜しまないでやれば
    反感を減らしつつ、かなりの範囲で自由に生きていけるんだ。
     
     
    私はそう学びとったんで、次はおめえらにバトンタッチ。
    それぞれ自由に解釈していってほしい。
     
    またこれでひとつ、肩の荷を降ろせたよ。
    古き良き日本人の思いやり (?)、繋いでいければ良いなあ。
     
     

    評価:

    株式会社ワンダーワークス


    ¥ 238

    コメント:もうこれ必需品! ピアスの穴、ふさがらねえ! 若気の至り、永遠!!!  穴な、臭いぞ。 こまめに掃除せえ。 んで、いらん穴は増やすな。  何でここでこれをレビュるんかっちゅうと、“隠す” 検索でシリコンピアスが出たからだ。 あっ、穴掃除、買っておかないと、と。

  • 嫌われて良いんだよ

    以前、“嫌われるって事は、そんなに悪い事ではない” と書いた。
    今日はそれを詳しく説明する。
     
    私は、接触した人から
    ものすごく好かれるか嫌われるか、結構2分される。
     
    嫌われる確率は半分。
    つまり5割。
    高確率で嫌われてるけど、よく考えろ。
    イチローですら、打率は3割台だろ。
    “5割嫌われる” とも言うけど
    5割は好かれてるんだから、すげえ打率じゃねえ?
     
     
    あ、これさ、陰で私を嫌ってる人は知らね。
    私に気付かれていないのは
    数に入れなくて良い、と割り切っている。
     
    このザツな把握のせいで、道化になっている可能性もあるけど
    気付かなければ、ないも同然で良くねえ?
     
    こう考えると、神様、大変だよな・・・。
    全世界を掌握してるんだろ?
    ま、人間ふぜいと比べる方が無礼か。
     
     
    で、こっから私節が炸裂するけど
    この打率を上げる努力はしない。
     
    7割ぐらい嫌われだしたら、さすがに方向性を見直すけど
    “5割5割” ってのは、私の自信の源なんだ。
     
    私は、7割8割好かれる人は、あまり信用しない。
    9割10割好かれる人は、詐欺師だと見なす。
    だって、空気を読まない、いらん事を言う、考えなしに喋る
    という叱咤をされても、結局私は正直者なんだよ。
     
    この “正直” ってのが、良いか悪いかは
    私の打率5割に表れてねえ?
    つまりは、人それぞれの受け取り方で
    私の正直さを好む人と嫌う人に、真っ二つに分かれるわけだ。
     
    それプラス、私の性格の悪さを加味しても
    間の悪い正直さが、場を凍らせたとしても
    人々に安心感を与えるんじゃないか?
    私はこう分析している。
     
    私の人格を基準にすれば
    人に好かれるのは、4割5割で充分。
    6割好かれるのは、偉人だと思うぞ。
     
     
    だけど、嫌われるのは本当に辛い。
    この前も絶交されちゃって
    慰めてもらおうと泣き付いた友人に
    「イイ歳して何やってんの」 と大笑いされたよ。
    私、号泣してるのに、ひっでーーー!
     
    この話は、心の傷が癒えて、状況が許す時がきたら書こう。
    ババアで絶交なんて、今の日本じゃ3人ぐらいしかされてないだろ
    モロ身バレするじゃねえかよ。
    このブログがバレたら、残り少ない友人も失いかねないじゃん。
     
    え? 全然正直じゃないじゃん、って?
    言わないのと、ウソを付くのは違うだろ。
     
    それに私はウソを付くぞ。
    全部晒すのは、相手に負担を押し付ける事になる。
    完全な正直者は、逆に卑怯者だと思うよ。
    (ほーら、黒を白と言い始めてるぞー
     騙されないように、気をつけろよー。)
     
     
    話を元に戻すけど、嫌われるのは辛いけど
    それは自分の存在価値なんだと思っている。
     
    小説 “亡き人” のゼロに、私の思想を代弁させているけど
    どうでもいい人の事は、嫌いにはならない。
    それこそ、ちょっと好きにはなってもな。
     
    私を嫌う人は、その心に私の存在が焼き付いた人なんだ。
     
    これを誇らずにどうする?
    嫌ったあげくに、嫌がらせとか無視とかしてくれるのなら
    その人は一生、私の事を忘れないぜ。
     
    誰が知らなくても、私が生きて存在した事は
    その人だけは覚えているだろうよ。
    お礼に私の死を喜んでくれて良いよ、ありがとう!
     
     
    これを言うと、大抵の人は驚く。
    何? そのプラス思考は、って。
     
    逆だろ。
    こういう事で自分の生存証明をするなど、哀れじゃないか?
    でも私は本気で、こう思っているんだ。
     
     
    人の好き嫌いなんて、ほんと千差万別だろ。
    外からコントロールなんて出来ないよ。
     
    これは精進しない、って事ではない。
    常に自分とは戦っている。
    より良き方向へ行く事は、私の人生の目標であって
    人に好かれるためではないんだ。
     
    私は、思う事を言い、きっちりバチに当たりながら
    私を好いてくれる5割の人を大事にしていきたい。
     
     
    ・・・・・・・・こう言うと
    何か良い事を言ってるかのように錯覚するかも知れないけど
    間違えるなよ
    なるべく多くの人に好かれようとするのが
    人としては正しいんだからな。
     
    人に嫌われて辛い想いをしている時に
    嫌われっ放しの私の意見を思い出して
    ちょっとでも安心せえ、って事さ。
     
     
    罵倒される一例、下の記事のコメント欄にあるぞ。
    ブスがモテる方法 11.4.7
    もう、タイトルからして、怒られて当然なんだけど
    言われると、しんどいぜ・・・。
     
    皆、こういう事を言われるヤツもいる、って事で
    私を反面教師にしてくれ。

  • 刹那

    もう、言葉からして、耽美なイメージがあるんだが
    現実生活にこんなものはいらん! と、断言する。
     
    ババアになった今だからこそ、言える事なんで
    若いもんは耳をかっぽじいて聞いとけば、良い事もあるかも知れん。
     
     
    私も何百年前だったか忘れてしもうたが
    若かりし頃はチャラチャラしとった。
    毎日が普通に来て普通に終わって、何の不都合もなくて
    イヤな事があっても、その場をしのげれば後はどうでも良かった。
    そういう日々がずっと続くと信じて疑わなかった。
     
    20代も中盤になると、人生のすべてが決まってしまった、と思えた。
    自分の道はこの足元の1本に絞られて
    努力しても、ちょっと良くなるだけで
    そう大して変わらないんだろう、と諦めていた。
     
    かあちゃんの、「まだまだこれからなのよ。」 という言葉も
    虚しく聴こえるだけで、到底信じる気分になれなかった。
    不幸だったわけではないけど、“決まってしまった” というのが
    何だか窮屈に思えて、絶望まではいかないまでも
    あーあ、って感じの心境だったんだ。
     
     
    ところが、あれやこれやと色々あって
    すっかりババアになった今になってみると
    何かもう、人生えれえな展開になっとって
    しかも自分は実は、そんなに苦労してきていなかった
    努力もしていなかった、そう気付いてしまった。
     
    その時その時で、すんげえ辛い想いはしてるんだけど
    それは感情であって、“苦労” じゃないんだ。
     
    気分が落ち込んで苦しい時は、どうにかしようと
    気分転換になるような事をして乗り切ってたけど
    それも単なるその場しのぎにしか過ぎなかった。
     
     
    楽しい事ってのはな、結局は思い出にしかならない。
    そういう思い出は、心の支えにはなるけれど
    昔を思い出して懐かしむ、なんて情けない。
     
    良い時が若い頃の武勇伝のみで、それを脳内でリピート再生して
    昔話ばかりしている年寄りにはなりたくねえと思う。
     
    年を取ってきた時の、本当に役に立つ財産ってのは
    頑張って勝ち取ってきたものなのだ。
    金銭でも人脈でも地位でも知識でも心の強さでも、何でも良い。
    とにかく、これをした! と、胸を張って言える何か。
     
    苦労は買ってでもしろ、という格言があるけど
    あれは真理だと、今になってようやくわかった。
     
    “苦労” というのは、切磋琢磨、試行錯誤する事であって
    どうにかしよう、と逃れる術を考える事じゃない。
    立ち向かおうとする意気込みを言うんだと思う。
     
     
    まだ若造の分際で、「道は決まった」 とか、ほざいていたけど
    ババアになった今でも、いや、ババアになればなるほど
    明日がわからなくなってくる。
     
    それは自分ではどうにもならない支障が増えるのが、理由のひとつ。
    運動神経が鈍って、1cmの段差につまずくとか
    体の節々が痛むとか、今考えてた事を忘れて思い出せないとか
    信じられない老化が押し寄せてくる。
     
    明日はどう衰えてるのか、もうすんげえ恐怖でなあ。
    ある意味、自分が日々生まれ変わっている気分さ。 劣化コピーで。
     
    そんでもういっちょの理由は、死が現実のものとして目の前に控える事。
    周囲で死に事が多くなってきて、それが自分の年齢と近くなってくる。
     
    でもただポックリ死ぬのなら、まだ幸せだと言える。
    ボケただの、寝たきりだの、介護だの
    リアルに自分の近い将来の問題として、ドーンと鎮座されちゃう。
    自分がどう死ぬかわからない不安、それが一番恐いものだったとは!
     
     
    ほんと、20代なんて人間としてまだまだ新品である。
    そういう時に財産を貯えておかんと、後々絶対に後悔する。
     
    何度も言うが、ジジイババアになってからが長いんだよ。
    車や家電は10年20年使えるのに、翌年には型落ちだろ。
    人生もそうだと思われているけど、実は古ぼけてからが勝負時なんだ。
    長い生の中、若い時なんて一瞬なんだよ。
    その体が動く時に、何か頑張っておくべきなんだ。
     
    私は今、後悔しているよ。
    無条件に安泰を信じて、無意識に刹那を感じて退屈していた事を。
    切羽詰ってなかった、あの頃の自分を。
     
     
    だけど今こうやって、年取った年取った、と言っているけど
    多分、平均寿命から考えても、あと数十年は生きる。
    その時になって、再び過去の自分を恥じたくないから
    まだ頭や体が動く今の内に
    私は刹那を捨てて、未来を考えて生きていこうと努力したい。
     
    若い頃のチャラチャラ仲間なんかも
    皆グチグチ嘆いてはいるけど、何とか少しずつでも備えていってる。
     
    過去に生きる人として、生を終えたくない年寄りは
    あがいてあがいて必死こいている。
    たとえ未来がどうなろうと、今の頑張りは無じゃないと信じて。
     
     
    どうやら人生は、何度でもやり直せるみたいなんだ。
    道も1本道じゃなかったんだ。
    自分が気付けば、だけどな。
     
    年を取るのが恐いかも知れないけど
    年を取った自分は、また違う自分になっている。
    恐がってた昔の自分を鼻で笑えるほどに。
    それも自分次第のようだが、きっとそうなれると信じる。
     
    一生苦労する気になれば、人生、結構良いもののような気がする。

  • 自意識

    この言葉の真の意味が、本当にわからん。
    自分でも、あまり使ってないんじゃないかと思う。
     
    自意識について、予想してみると
    多分、世界の中での自分の存在の確立なんじゃないかと思うが
    この時点で既に大間違っていたら
    この下全部、誤爆になってしまうんじゃないかと思うが
    そういう冒険の旅には出なくても良いんじゃないかと思うが
    毎度の綱渡りだし、今更何を守る? って感じじゃないかと思うが
    韻を踏めたか?
     
     
    自意識が自分の確立なら、それは必ず環境が関わってくる。
    自分の置かれている境遇と周囲の人々。
    その中で、自分と周囲の感覚の落差が大きいほど
    自意識は強くなるような気がする。
     
    自然体で生きていられるのなら、自分の確立など考える必要もないからだ。
    “考える”“意識する” っちゅうのは
    哲学的趣味の持ち主じゃない限り、何かを解決したがっているわけで
    大抵の場合、それについて不満を持っているからである。
     
     
    じゃあ、自意識が強いヤツはどういうタイプか。
    ここで大きく関係してくるのが、自己評価だと思う。
    自己評価が冷静に客観的に出来るというのは
    他人の目を取り入れるのが上手いヤツである。
     
    自意識が低いヤツは、他者の評価と
    自分像のバランスを上手く取れているので
    自意識を意識する事なく、生きていける。
     
    つまり自己評価が極端に高いか低いか、なヤツが自意識が強い。
    自己評価が高いヤツは、自分の不幸不遇を他者のせいにする傾向がある。
    自分はちゃんとやってるのに、周囲の見る目がなくて評価されない
    と、疑いなく思って、己を甘やかせている。
    自己責任感がないので、自業自得すら考えない。
     
    自己評価が低いヤツは、他人の目を気にする神経を持ち
    自分を大事にはするけど、自分自身を信用できない。
     
     
    こう考えていくと、どうも自意識というのは
    あまり良い意味ではないようなイメージになってくる。
    周囲に対する不平不満が溜まってきた時に、自分の内に目を向け始め
    その時に追求するのが、自意識ってやつじゃないだろうか。
     
    しかし、一見、自意識の権化のように思える勘違い系は
    唯我独走状態なので、社会まったく眼中なし空間にいて
    自意識云々には囚われていないような気がするのだ。
     
    となると、自意識というのは、ある程度の社会性がないと
    持つ事すらできないもののような気がする。
    この点においては、一概に悪いばかりとも言えないので
    度が過ぎるとマズい、という話なのだろう。
    まあ、これは何に対しても言えるのだがな。
     
     
    自分の事で考えてみると、私にはあまり自意識はない。
    私は勘違い系に属するからだ。
     
    自分の世界を持っていて、それで満足なのだが
    とにかく他人に迷惑を掛けたくない、という気持ちがあるので
    社会との穏便な迎合を目指している。
    自分の世界は自分の心の中にだけありゃ良いしな。
     
    そして何より、自分にも他人にもあまり期待をしていない。
    (もちろん例外はあるが、基本的に大体、って話である。)

    これ、えらい投げやりな感覚に思えるだろうが、違うのだ。
    人に期待しないでいると、他人のちょっとした厚意に気付けるようになる。
    その上、その “意外な厚意” が、とてもありがたく感じる。
     
    自分に期待しないと、自然体でいられる。
    やっただけの評価しか貰えないのも当然だと納得できる。
    何の問題もなく、逆に良い事だらけである。
     
    私の言う “期待” とは、自分に都合の良い願望を差す。
    社会というのは、ギブ&テイクが基本設定だと思う。
    これを逸脱したら、失望が結構な高確率でやってくる。
    それに懲りたんで、私は期待をしない努力をしているのだ。
     
     
    そこまで極端に走らなくても良いだろうけど
    己をわきまえない期待というのは
    多くの場合、周囲にも自分にも害にしかならない。
    自意識というのは、実はこの “期待” じゃないかと思うのだ。

  • 何のために生きるのか 

    自分は何のために生きているんだろう?

    この自問自答を、必ず一度はしたと思う。
    私もクソ陰気臭え小説を何冊も読んだ時には
    こんな疑問が頭にこびりついたよ。

    人は何のために産まれてくるのか、何のために生きるのか

    だけどケダモノの野生の勘で、この問題には深く立ち入ってはいけない
    と察知したんか、単に脳細胞の不足で忘れたんか
    この疑問を持ち続ける事はなかった。
    バカ、ブラボー!

    寿命も残り少なくなってきた今だから、自信を持って言えるが
    この類の疑問はな、一般人は持っちゃいけない魔の問答だ。
    自分を追い込む呪文なんだ。
    そういうのは宗教家や芸術家に任せておけ。

    だが最近になって、そこらへんの本当の問題は
    この問いにあるんじゃない、と気付いた。
    こういう疑問を持つ人間の方にあるのだ。
    この呪文を持つ心境になる事に、問題があるのである。

    自分は何のために生きているのか?

    これを思うヤツ、よく考えてみい。
    その答を、本当に “自分” が出したいのか?

    違うだろ?
    自分が何のために生きているのか、他人に答えてほしいんだよな?
    自分がいかに他人にとって重要な存在であるか
    その存在を認めているよ、代わりはいないよ、と言ってほしいんだよな?

    幼い頃から、周囲の人との違いを認識させられてきた私は
    大勢の人の中にいても、常に孤独感があった。

    この “違い” とは、よそ者だとか、喋り方がおかしいとか
    直球で言われてたので、バカガキだった私にも理解できた事である。
    しかもそれは、自分ではどうにも出来ないジャンルだったんで
    他人と違う、というのをデメリットとして受け止め
    子供の脳みそで、孤独感に変換してしまったんだと思う。

    しかしこの孤独グセのお陰で、何のために生きるのかという
    迷路に、はまらなかったんだと思う。
    と言うか、そこまでの思考力がないせい、ってのが大きいんだが
    それもまた結果的には幸運だったと言えよう。

    私はただそこにいるだけなのに、周囲があれこれ言うわけで
    それは怒られたり文句を言われたりの、罵倒系が主だったんだが
    その孤独感と、渋谷のスクランブルの真ん中にひとりで立つ孤独感とは
    恐怖が全然違う事に気付いたら、悪口だろうが何だろうが
    言われないより全然マシ、と思うようになれた。

    一番恐いのは、無視なんだ。
    大勢の通行人が行きかう中で、誰も自分を知らない誰も自分に目を留めない
    自分がそこにいてもいなくても、まったく関係ない
    こんな孤独感は、他にないぞ。

    まあ、横断歩道を渡りながら、こんな事を考えるのは
    アホウ以外の何者でもないがな。

    だけど誰でも、大なり小なりこういう感覚を味わっていて
    それが “自分は何の~” という疑問に繋がる。
    もちろんそれは、交差点での話ではなく
    自分が属する社会の中での、自分の存在感に関してである。

    だからあえて言う。
    何のために生きているかなんて、考える必要はない。
    それは他人に認められたい気持ちの裏返しだから。
    そんな疑問を持つ自分は、自己評価が高すぎる事に気付け。

    存在なんて、いくらでも作れるものなんだ。
    コンビニに行けば客だし、会社に行けば従業員だし
    アパートに住めば店子で、雑誌を読めば購読者だ。
    そんで、ここにコメントを書けば、私のネット仲間になるのさ。

    あ、最後のは冗談だから、非難はやめてくれ。
    客だの購読者だの、何だよそれ、と言いたいかも知れんが
    売る側としては、おめえひとりを確保するのに
    どんだけ四苦八苦してるやら。 ほんと死活問題なんだぞ。
    “消費者” って、社会にとって、すんげえ大切なんだ。

    もちろん、そういう存在感が欲しいんじゃないのもわかっている。
    だけど誰しも、そこにいるだけなんだよ。
    どの命も、ただそこにあるだけなんだ。

    まるで荒野に立つ一本の木のような
    この潔いさりげなさの美しさに気付けたら
    生きているだけで、それだけで良い、とも思えてくるんだ。

    ま、弱々な心と足りない頭脳の持ち主、その名は私! は
    ちょっと辛い事があったら、すぐ死にたくなるけどなー。
    (これがまた、その慟哭もすぐ忘れるんで助かっとるが。)

    “特別” という言葉に潜む傲慢さを捨てて
    自分を “いるだけ” で満足だと、いかに納得させるかが
    幸福に過ごす人生のカギだから
    この問題には他人を介入させない方が、平穏だと思うぞ。
    何のために生きて、なんて、主観のフリをした客観だからな。

    誰のためでもなく、自分のために生きればそれで良いんだ。
    自分で作りだした記憶がない自分の命なら
    受け取ってしまったら、最後まで使い切るしかねえんだよ。
    用途を説明されてないんだから、自分にわかるわけがねえだろ。

    そう諦めて、あるがままでいれば良い。

          私に捧ぐ  ううう・・・ 

  • 苦しみの未来

    ここ最近って、自分で自分を許せなくて、追い詰めて苦しむ
    っていうヤツが、すごく多い気がする。

    社会は、「個性」 とか 「人それぞれ」 とか言いつつも
    枠組みはきっちり備えているわけで
    マニュアル化されて、垂れ流される “基準” を
    真面目なヤツほど重く受け止めて
    ちょっとでもそれから外れると、悪い事じゃなくても
    罪悪感を持ってしまうんだと思う。

    これを “良いヤツ” だと言わずして、誰を善人扱いする?
    実際に、運命もそう思ってるはず。

    と言うのも、悩み苦しんできたヤツは
    歳を取ってから、実に満ち足りた “今” を過ごしている。
    人生、死ぬまで勉強、とか言うけど、確かにそうだけど
    同じ位置にいても、何か心の余裕ってやつが違うんだよな。

    そういうヤツらが必ず言うのは、「今が一番良い」 である。
    迷いまくってた若い頃には戻りたくない、って意味ではなく
    昔にあがくだけあがいたから、その時代には未練はなく
    これからはマイペースで歩いていきたい、みたいな。

    もう、すんげえ羨ましいよ。
    私なんか、いつまで経っても考えなしのアホウだったから
    ババアになった今、むちゃくちゃジタバタしてるぜ。
    果たして寿命切れ前に、心の余裕が出来るのかすら危ねえ。

    それもこれも、苦に気付く感受性がなかったせいだと思う。
    何も考えずにきて、今も何も考えずにいるヤツは
    割とイヤなヤツになってしまっているんで
    遅くなってもアタフタしてる方が、まだマシかも、とも思うんだが
    現在の私のカテゴリーが、悪寄りじゃない自信がないので
    何ともかんとも、いやはや、やれやれ。

    世の中、やっぱり総合するとプラスマイナスゼロだ。
    ラク → 苦 → ラク → 苦 と、人生はループしてる。
    これは、まとめ払いが出来るようで
    何年も何年も苦しんだら、その後何年もラクでいられるようだ。

    ジジババになってからの幸せって、価値半減じゃねえ?
    とか思うかも知れん。 私もそう思ってた。
    ところが実際にジジババになってみるとな
    若い頃なんて人生のほんの一瞬だ、というのがよくわかるんだ。
    ジジババになってからが長え長え。

    そんで、何か深くなる。
    若い時は浅瀬でバチャバチャ遊んでいたのが
    歳を取るほど、色んな事の底がどんどん深くなって
    うおっ、今からが本番かい! と、ビビらされる。

    “老後” って、隠居のイメージがあったけど
    ものすごいアクティブなものだったんだな
    と、戸惑っている真っ最中の私が言うのだから、間違いない。

    だから、苦しんでいるヤツの未来は明るい、と予言する。
    苦しんどいて、損はなし。
    ただし、“正しく” 苦しむのが大事だと思う。

    “正しく苦しむ” というのは、解決しよう乗り越えようとあがく事で
    その苦しみ自体に目を向けてはいけない、って事。

    ケーキを作ろうとしてるのに、無塩バターを丸かじりすな、って話だ。
    どうせ腹の中に入ったら一緒だろうが
    小麦粉、砂糖、卵、と材料を別個に食ってたら意味ねえだろ。
    出来上がったケーキは美味いが、作る過程も楽しいヤツには楽しいのさ。

    だから、その材料ひとつに囚われていては進めない。
    苦しみは人生を作る材料でしかないのだから。