カテゴリー: 人生の思想

  • 人を信じる

    人を信じられない人、に対して、人は 「疑り深い」「寂しい」 など
    何かのマニュアルのように、哀れみのコメントを言う。
    しかし私は、別に人を信じなくても良いと思う。

    確かに自分が信用されてないと、情けない気分になるけど
    じゃあ自分は人を信じているのか? と問われると
    この、よく使われる “信じる” フレーズの本質が見える気がするのだ。

    そもそも、人を信じるというのは、どの範囲でどういう深さでだ?
    通帳と印鑑を預けて管理してもらえるレベルか?
    「あの人だけは私の事をわかってくれる」 という思い込みか?
    このどっちも、相手にとっては面倒な事じゃないだろうか。

    騙すつもりがないなら、他人の金庫を預かるのは重荷だし
    「わかってくれる」 と思ってくれるのは良いけど
    いつ何時どうなるかわからんこの世の中で、不変のものはないので
    トラブルの都度、説明をしてもらわないと相手も困る。
    つまり人がよく思う “信じる” というのは、無条件ではないのだ。

    信じるというこの言葉が、誠意の権化のように感じるので
    メルヘンのような使用方法をされているけど
    自分のことが一番信用ならん私からしたら
    自分自身を信じられんのに、人にそこまで気持ちを寄せるのは
    責任の押し付けにも思えてならない。

    実際に私は親族からは信用されていない面があるし
    私も真意を相手に訊かないと安心できないのは
    完全に信用していないからだろう。
    しかしバスや電車には平気で乗る。
    事故は起きない、という信用をしているわけだ。

    信じる、ってひと言は、こんだけ幅広い意味を持つのに
    人がこの言葉に想うことが色々あるのは
    心のよりどころになっているからかも知れない。
    人を信じられない自分は、他人と深いところで繋がっていない
    という悲観的な錯覚も根深くある。

    確かに信用できる人の方が、付き合いも安心して出来る。
    しかしその信用は、見て見ぬフリをしている場合が多いと思う。

    よくある例では、夫婦の不仲の相談を受けた人には
    原因が夫の隠れた浮気のように思えても
    妻はその可能性を受け入れない、とか
    帳簿が合わないけど、経理を任せているのは身内なんだし、とか。
    信じるという言葉を隠れ蓑にして、逃げているだけにしか思えない。

    このように、信じている、という態度は
    “情報をシャットアウトしている” と、同義語の場合って多くないか?
    だったら、情報を取り入れる = 疑う と責められるのか?

    こう思いたくなる事が時々あるので、私の場合は
    信じる時は、「裏切られても許す」 という決意をしている。
    コツは、そういう時の自分の世界の軸に、他人を立てないようにするんだ。
    すべて自分の決断、と覚悟しておく。

    他人を恨むより、自分のバカさ加減をあざ笑った方が、人生ラクだと思う。
    あざ笑いも笑いには違いないんで、まだ明るい気分だし
    他人の事はどうこうしにくいけど
    自分の事なら自分でどうにか出来るだろ。

    “気が合わない” は、付き合えない理由にはならない私の感覚では
    “信用できない” もまた、付き合えない理由にはならない。
    そりゃ、窃盗癖や虚言癖のある人との付き合いは論外だけど
    普通の相手となら、面倒くさくてもギャアギャア問えばいいわけで
    充分なセッションなしで深く繋がれる、とか言う幻想も持っていない。
    親子だって夫婦だって、その都度の話し合いはとても大事だしな。

    結局、“信用” っていうのは、自己満足だと思う。
    私は純粋で美しい気持ちであなたを信じているから
    そんな私の期待に応えられないのなら、あなたは悪人ね、みたいに
    「信用している」 という言葉は、相手を縛りかねない呪文である。
    他人の人格を尊重するのなら、「ここは信じられる、ここは用心」 と
    相手の性格を細切れに判断するのが、双方の負担にならずに済む。

    何より “自分の信頼” って、世界にとってそんなに大事か?
    私ごときに信用されても、屁の突っ張りにもならんだろうー。
    自分の小ささをわきまえて、期待をせずに希望を持つ
    というワザを身に付けた方が、生きやすくなると思うんだが。

    何を書いとるのか、自分でもわからなくなってるんだが
    要するに、そんな深刻に考えんと腹をくくったら気楽にいこうぜ
    って話なんだけど、ユルユルすぎるか?

  • もう今回の病気は、ほんと死にたくなった。
    高熱とリンパの激痛が2週間も続けば
    そりゃ気力も削がれて、死にたくもなるさ。

    ちなみに、死にたくなるほどの病状はどんなだったかっちゅうと
    辛さの大きさより、時間がダメージだった。
    ものすげえ辛いのは数日ならば、何とか耐えられる。
    だけど微妙な辛さでも、10日ぐらい続くと精神的にキツくなる。

    今回の病気は、命に別状がない事はわかっているし、慣れてもいる程度。
    ただ長期戦になったんで、途中で嫌気が刺しただけの話だ。
    あの状態で公園で野宿してても、死なないと思う。

    自分の価値やら、生きてる意味やら、見えない未来やら
    そんな事をグルグル考えてしまい
    おまけに、もんのすごくマイナス思考になっただけの話。

    体が元気になってきたら、「くだらん!」 のひとことで
    済ませられる、この落差も、とても不思議である。

    結局、精神にまでダメージが行くと
    自分でもありえない考えをしてしまうんだろうな。
    病気中はメンタルケアが必須だ、と改めて知った闘病だった。

    で、真剣に死にたいなんて、滅多にない良い機会なんで
    うなされながら、命について冷静に考察してみた。

    死にたいとは思うものの、死のうとは思わない。
    これは何故か?
    何かよくわからんけど、本能的に自殺はヤバい、という気がする。

    こうやって病気をした時にわかるんだが
    自分の心は自分のものだと思えるんだけど
    自分の体は、どうしても自分のものだと思えないんだよな。
    自分の意思でどうこう出来ない、っちゅうか。

    何故、自殺がヤバいと思うのかと言うと
    その “自分のものでない体” を破損するからだと思う。
    ファンタジーな話になってくるが
    この世に生まれる前に、何かを契約してる気がするんだ。
    それを脳にインプットされているから
    契約破棄になるような事はヤバい、と感じるんじゃないだろうか。

    ボーリング場に行くと、無条件でシューズをレンタルせにゃならん。
    あれと同じで、「地球で生きるなら、この体ね。」 と
    どっかからレンタルしたんじゃないか?

    そんで、その “どっか” は、十一、十三よりやっかいなとこで
    借りたものに傷を付けようものなら、どんな目に遭わされる事やら
    どんなに辛くても、契約終了まで耐えた方がマシ、みたいな。
    中にはマイシューズ持参もいるだろうけど
    そういう人々は、“恵まれた” 属性に入ってるんじゃないだろうか。

    私が死なないのは、契約であって
    やっかいなところに白紙委任状を出したも同然な気がしてならない。

    こう考えると、命ってのは体に心が入った時点で
    発生するものなのかも知れない。

  • 自画自賛のすすめ

    私は自画自賛するヤツが大好きだ。
    日本人は、謙譲の美徳とやらを持っているので
    通常なら自画自賛話は、真に不幸なヤツから以外は
    ほんとに内輪だけの “ここだけの話” でしか聞けないのだが
    たまに、満遍なく何様? な痛快なヤツに出会う事がある。

    “たまに” とか書いてるが、よく考えると
    私の周囲には、この系統の人種が多い。
    やはり類は友を呼びまくっとるのか? とも思うが
    私が遠慮なくロクでもねえ事を言うので
    つられて本性を出す場合が多いのかも知れない。

    ここで、自画自賛のマイルールをとうとうと述べるが
    大切なのは、自画自賛は自慢とは違う、という事。

    自慢は、人に羨ましがられたり賛同されたりしたい、という
    対・人 を強く意識して行なわれる。
    これは私から言わせれば、愚かな行為である。

    他人と自分を比べてしまうのは、しょうがない事で
    自分の確立に、他人の存在はなくてはならないものである。
    しかし、自分の思う自分の価値を、他人に同意させようなど
    とんだハタ迷惑な話でしかない。

    自画自賛とは、自分で勝手に設定して
    ただの情報伝達として、自分を褒める言葉を出すだけの事。
    自分が生きる上での支えみたいなものなので
    そこに他人の許可は必要としない。

    私の自賛に文句があるなら言ってみい! ・・・己を見直すから
    の気合いで、「私はこうだから」 と言っているのだから
    聞いてる側は、はいはい、と流してくれれば、ありがたい。

    単にマイワールド炸裂なだけだが
    自画自賛をさりげなく、またはコミカルにするヤツとは
    話していて、とても楽しい。

    たとえそれが大いなる勘違いであったとしても
    自分の美意識を定めて頑張ってる、という前向きな印象で
    清々しい気分になれる。

    そういう私も、実は自分に自信がない。
    私が本気で自賛しているのは、ナイスバディのみで
    天才だの気品あふれるだのの他の部分は、正直ギャグである。
    そういう項目で笑いを取る必然性はまったくないんだが
    やはり基本が何様なので、単なる個性だと認識してもらいたい。

    自信はないが、自信がないヤツの気持ちはわからん。
    自信がない事で悩んだ事がないからである。

    皆、自信がない事で悩んではいないんだろう?
    本当は、その自信がない部分を解決しようと
    努力するのが面倒くさくて悩むんだろう?

    面倒くさい、ってのは、私固有の感覚で
    他の人の場合は、「やっても出来ない」 とかかも知れないけど
    だったら、「やっても出来ないので自信がない」 の
    「自信がない」 の部分に焦点を当てるのは、違う気がする。
    問題は、「出来ない」 のとこだけじゃないか?

    色んな事が上手くいかなくて、総合で自信がなくなってる場合も
    全部バラけさせて、いっちょいっちょ別項目として考えるべきだと思う。
    こういう、ちょっとした考え方の方向性が
    荷物の持ちすぎを助長させている可能性もあるものだし。

    「どうせ自分なんて」「でも」 とばかり言ってるヤツは
    自分の容量を大きく見誤って、自らにダメ出しをしているように見える。
    私的には、そっちの方が 「何様?」 だと思う。

    スポンジが不味いケーキで、デカさがホール大だったら
    はさんである苺が美味かろうと、屁の突っ張りにもならんだろ。
    それがショート型に切ってあったら、苺の美味さで多少は緩和される。

    自分をデカく見積もって、トータルで不味いと嘆くより
    ショート大しかない、と最初から思っていれば
    点々とはさまってる美味い苺の存在に救われる、ってもんだ。
    自画自賛とは、そういうものなのだ。

    自画自賛、しようぜ。
    冗談で言ってるだけでも、自分の出す言葉が耳から入って
    何となく自己暗示に掛かっていくもので、ひとつ良いとこがあると気付くと
    芋づる式に自信が持てるようになる事もあるんだぜ。

    まあ、あまり人に自画自賛を言ってると、人格を疑われる事もあるが
    人の評価より、自分の気持ちの持ちようを大切にしてみたらどうだ?
    評価なんて、後からついてくるものだし。

    と言いつつ、いまだに評価がついてこない私としては
    今後の人生をどう修正するか、の瀬戸際かも知れんがな。

  • 運命

    人々は色々な占いで、運命を告げられているわけだが
    この運命ってのは、どういうものなんだろう?

    占いは統計学だと言われているけど
    もしかして、運命の記号付けを読み取る方程式なのかも知れない。

    物には必ず名前が付いている。
    逆に言えば、名前が付いていない物は存在しない。
    名前は、私たちが知りやすいよう使いやすいように付けられるのである。

    人間にも名前が付いている。
    しかし自由勝手に動き回る人間だと、名前だけでは分類がしづらい。
    そこで、何年何月何日何時にどこで産まれた血液型×型の○○さん
    という、長い成分表が必要になってくるのではないだろうか。

    誰にとって、その分類が必要なのかはわからない。
    そもそも運命自体も、我々人間にとっては必要性がない。
    だから本当に運命があるのなら、観察者が存在するはず。
    そう考えると運命というのは、前世だの別次元だのステージだの
    世界が1個だけではない、という前提で存在するんだと思う。

    そして占いというのは、その運命の一部を見る方法だと思う。
    同じ姓名でも、その他の条件が違えば、同じ人生にはならない。
    この姓名ではこの運命だけど、産まれた時間がこうで
    出生地がこうで、血液型がこれで、先祖がこうだから
    と、すべての要素をトータルして、運命が決まるんじゃないだろうか。

    ただしそれらによって決まった運命も
    “大体の道筋” を示しているだけに過ぎないと思う。
    人間には意志があって、選択が出来るからである。
    その選択すらも決まっているのなら、意志の意味がねえ。
    そんなプログラム化された世界など、どういう価値があるんだか。
    まあ、“上のステージ” のお方の考える事は
    “凡人” の分際の私には想像も付かないけどさ。 ふん

    私は、「運命は変えられる」 派である。
    ビル解体爆破だって、一部の計算がちょっと間違っただけで失敗するだろ。
    あの真横にガスッと倒れた中国 (だったよな?) のビル爆破を観たか?
    あれだって、一応最先端の技師が綿密に計算してるはずなのに
    周囲の現役ビルを巻き添えにして真の横倒しになってたじゃん。

    現に自分の過去を振り返ると、いくつかの分岐点があった。
    あそこで別の選択をしてたら今の私はいない、と確実に言えるポイント。
    欲に負けてとか周囲に流されて、ラクな今の道を歩んできたので
    違う道を選ぶのは、ものすげえ困難だったと思うが
    それでも今になって思えば、フラグはちゃんと立っていた。

    運命とは、無理やり例えれば、1本の広い道路だと思う。
    細い曲がりくねった道の方が、何かそれっぽいけど
    実際には真っ直ぐの、やたら広い道。

    そこをクネクネ曲げて歩くのは人間の方。
    真っ直ぐ歩いていれば、そのまま道のド真ん中を進むわけだが
    骨格が歪んでいるヤツは、知らず知らずに斜めに歩いているもんだ。

    大まかに行けば結構不幸でも、中央を避けて歩けば
    不幸大直撃はまぬがれて、まだ傷も浅いかも知れない。
    思い切って道を出て、荒野を進むのも良い。
    すげえ広い道なので、中々道を外れる事は出来ないであろうが
    それでも向きを変えてれば、いつしか道の端まで近寄れる。

    占いは、その道のド真ん中を歩く人生を予想しているわけで
    素直に真っ直ぐ進めば、占いの結果の通りになるだろうけど
    それがイヤなら、自分で歩く方向を変えれば良い。

    果てしなく遠く見えても、何事も積み重ねだろ。
    お膳立てされた飯を食いたくないなら、自分で料理するしかねえ。
    あがく、って事は面倒くせえものなのさ。

    世界の真理など、人間にはわからないものなんだろうけど
    多分、運命が設定されている理由とは
    根性が試されるシステムが発動されている、って事なんだと思う。

    誰に試されてるのか、これまたわからんが
    案外この世に生まれ落ちる前に、自分で設定出来るんだけど
    そん時に、ちょっとヤル気になって厳しく課しちゃったんかもな。
    「俺、今回こんだけやってくるから-」 みたいな調子こいてさ。

    だとしたら、どこもかしこも自業自得、はあ・・・・・。

  • 乗り越えかた

    人生では何度か、「何もかもがおしまいだ・・・」 と思う事が起きる。
    未来も運も財産も自分の痕跡も、生きる意味すらないように思える
    絶望感に襲われた時って、生まれてきた意味を問うてしまう。

    こういう時はどうするか。
    私の場合は、何ひとつ変えずに普通の生活をする。
    飯を作って食って働いてブログを書いて映画を観て寝る。

    何故ならば、うろたえて落ち込むのは、自分の傷を確認する行為だからだ。
    本当の傷だって、ジッと観察してても治るのが見えないだろ。
    ましてや、大丈夫かな、と何度もガーゼを外してみたり
    ちょっといじくってたりしたら、逆に悪化してしまう。
    傷は、手当てをして放置してたら、いつの間にかふさがってた
    という治り方をするのだ。

    トラブルに対しても、自分の出来る事を終えたら
    後は放置して、気にしない方が良い。
    気になるのは当然だけど、思い出す度に落ち込んだり
    自分が哀れに思えてきたりするだけだ。

    そうやって自分で蒸し返していたら
    自分の抱えているトラブルが、えれえ重大な事に変身していくんだ。
    気にしなければ、それは単なる些細な事で固定されるのに
    動揺すればするほど、自分の中でどんどん育っていく。

    よく人が言う慰めの言葉としての 「忘れなさい」 は
    本当に記憶から消し去れ、って意味ではないと思う。
    問題点ばかりに注視していたら
    それはいつまで経っても新鮮なまま、脳内で再生されてしまうので
    エンドレスリバースはやめれ、って事じゃないのかな。
    “過去” にするには、一旦棚に放置しとく時間が必要だからだ。

    熟成期間を作れて、そこで初めて “乗り越えた” になる気がするから
    それを願って、意地でも普通の生活をするのである。

    物事の幸不幸を決めるのは自分。
    どっから見ても最悪な事でも、どっかに善の要素は必ずある。
    それを探し出せるかどうかが、プラス思考のコツである。
    そんで、人から 「大変ねー」 って言われるような事でも
    自分さえ苦に思っていなければ、それは大変ではない。

    この仕組みがわかっているから
    私は大変な時には、普通以上に普通の生活をする。
    “自分に出来る事”、これは対処だけを指すのではなく
    普段自分がやってる事も入るんだ。
    役に立つばっかりが “出来る事” ではなく
    自分の生活のための、何でもない事。
    掃除だの洗濯だの、雑誌を読むとかゲームをするとか。
    人生、時にはこうやって小さく狭く考える必要もある。

    実際これはとても難しい事で、普通に暮らしていても
    背後にトラブルが居座ってるのがわかって
    神経がものすごく張り詰めてしまう。
    もうほんと、自分の精神力がいつまで持つのかがわからない。

    私の人生に自殺という選択肢はなく
    追い詰められたら暴れる方に回る性格だけど
    今までがそうでも、何かが狂う可能性もゼロじゃないよな。
    もし万が一、どうにかなっちゃったとしても
    人生を終える30分前までは、普通にしていたい。

    最期までの日々を、全部落ち込みで過ごしたくはないんだ。
    一瞬だけトチ狂っちゃった、という終わり方をしないと
    自分の人生すべてがダメだった、という結論になりそうだから。
    それに上手くいけば、忘却が出来るかも知れないしな。

    今、私に何か問題が起きているのかっちゅうと、起きとる。
    何年も同じ分野で、次から次へと進化してやってきやがる。
    短気で猪突な私にしては、不動で耐え忍んでいる方だが
    たまにブチッときて、力押しで突進する事もある。

    そっちの方が私的には、すっきりと解決するんだけど
    人にはそれぞれ考えがあって、それを尊重しなければならないので
    あまり私流ばかりをゴリ押ししたらいけない、と思うからこそ
    自分を滅する、という向いていない方法も取らざるを得ない。

    人間、ひとりで生きているわけではない。
    それがありがたい反面、辛い場合も多いよな。

  • 大事にする

    実際は不幸じゃないのに、不幸感が漂う人っている。
    長年それは何故なんだろう? と、気に掛かっていたけど
    最近になってやっと、かなり近い答が見つかったかも知れない。

    親や配偶者に大事にされない、と嘆く人々がいて
    話を聞いている側からしたら、そうでもないように思える場合がある。

    ビシッとアイロンの利いたハンカチを持っていたり
    靴がピカピカに磨いてあったり
    栄養のバランスが取れたお弁当を持ってきていたり
    それは自分でやってるのか訊くと、やってもらっていると答える。
    それが親 (妻) の仕事だから、と。

    こういう事を言う人々には、共通点がある。
    性格は悪くはない、と言うか、むしろ良いのに
    ひねくれた部分があり、不満が多く、プライドが高い。

    店員さんなど、仕事で接してくれる人に高飛車な態度を示すのも
    ほぼ、このタイプに見える。

    こういう人々は、大事にされている事に気付かない。
    自分の思う “大事にされ方” じゃないと、納得しないのだ。
    どうも、無条件奉仕の+αがないと、大事にされてるとは思わないようで
    「仕事だから」「家族だから」 と、勝手な条件付けをして
    別人格の人の親切のハードルを上げている。

    人の親切を親切だと受け止めず、「当然」 みたいな態度を取られたら
    誰でもそいつに対して、優しくし甲斐がなくなり
    結局、最後には大事にされていない状態に、本当になってしまうだろう。
    自分で自分を、“大事にされない人” にしてしまっているのだ。

    幸せになれる状況のひとつとして、「人に大事にされる」 がある。
    誰かに大事にされている人を、人は無下に扱えないものである。
    他人の宝物を壊せないのと一緒。

    しかし、上記の因果応報と違って
    周囲がドグラで、実際に大事にされていない人もいる。
    そういう環境にいる人はどうすれば良いのか?

    一番手っ取り早い方法は、お金を利用する事。
    高い装飾品を身にまとい高級店に出入りすれば、誰でも大事にされる。
    その一時的な厚遇を、自信として自分の内に積み重ねれば良いのだ。

    だけどこの方法だけでは、完璧ではない。
    何故ならば、大抵の人は 対人仕様になっているからだ。

    お金の力で大事にされても、何か物を大事にしていても、しょせんは物。
    人に相対する時とは、充実感が違う。

    だから幸せになりたいのなら、人を大事にする事。
    これに尽きると思っている。
    上記の因果応報の逆バージョンをいけば良い。

    “情は人のためならず” と言うけど、これは真理である。
    親でも友人でも店員さんでも、誰かを大事にしていると
    それは必ず、自分に返ってくる。

    相手からの反応が特別になくても
    “誰かを大事にしている自分” という自己満足が
    自分が豊かになった錯覚を起こし、気持ちに余裕が出来、自信に繋がる。
    これも、形を変えて自分に返ってきているのと同じ。

    ようするに、“対・人” で上手くいかないと感じる人は
    相手の反応だけを、“結果” として追う事に敗因があるんだと思う。
    相手の気持ちを無視した押し付けは論外だけど
    迷惑を掛けてなければ、密かに自己満足をしてれば良いのだ。

    ただし、大事にする相手は選ばないと
    その人のためにならなかったり、カモにされたりする可能性もあるんで
    ある種の覚悟も必要になってくる場合もある。
    物事って、とことん巡り巡るし。

    良い相手を選別できて、良い関係を保つのが理想だけど
    そんな環境にいられるのなら、誰も苦労はせんわけで
    それがしにくいから、自己満足力がカギになってくるんだと思う。

    さて、ここまで書いてきて、幸せ関係の問題のひとつに
    “自己満足の基準の高さ” みたいな項目がある事が判明。
    私はプライドが低いので、すげえ難解なジャンルだが
    これもボチボチ考えていこうと思っている。

  • コンプレックス

    潜伏やこのブログでも、ちょこちょこ書いてはきた事だが
    私の喋り方はおかしい。
    いや、方言とかなまりじゃなくて、喋り方自体がおかしいのである。

    理由はよくわからん。
    どうも喉の構造が奇形らしく、幼い頃は喋れなかったらしいが
    親に訊いても、「そんな事を気にしてるのか」 とか嘆く一方で
    自分の事なのに、人にきちんと説明が出来ない理不尽さ。
    説明責任を果たしてから死んでほしかったよ、うちの親はよー。

    喋り方がどうおかしいか、っちゅうと、これもよくわからん。
    自分の声を自分で聴いた事がないからである。
    聴けば傷付き、気になって人前で喋れなくなりそうで恐いのだ。
    舌っ足らずに近い感じだと思うが
    日常生活で一番困るのは、サ行がまったく発音できない事である。
    サ行、特に多く使われてねえか?

    昔は、この喋り方を笑う人や
    「何を言ってるのかわからない」 と、文句を言う人がよくいた。

    「ちょっと歌ってみて」 とか、「ちゃんと喋って」 とか
    爆笑しながら私の真似を延々続けたりされる度に
    自分が悪いんだ、と落ち込んでいた。

    今は人権だとかが浸透してきたので、そういう人も減った。
    それでも何も言わないでいてくれる人たちには
    何て優しいんだろう、と感謝している。
    よって、私の会う人はほとんどが優しいので、世の中自体が優しく思えて
    ちょっとした恩恵も受けている気分である。

    と言うか、関西では “関西弁” という鉄の掟があって
    なまりの違いで突っ込まれる突っ込まれる。
    喋り方そんなんどうでも良いから、とにかく関西弁じゃないと認めない!
    という風潮が、逆に私にはとてもありがたい。
    方言なら努力すればどうにかなるかも、という希望が持てる。
    関西、私にとっては意外な面でパラダイスだったぜ。

    “自分が悪い” という意識は、やっぱり持っているけど
    本当は、努力でどうにか出来ない事は、自分のせいじゃないんだ。
    だけど私はこの喋り方で一生やっていかなきゃならない。

    私の言葉は聞き取りづらいだろうから
    聞く人には迷惑を掛けて申し訳ない、と思う。
    自分のせいじゃないのなら、こんなんも思わなくて良い事なんだろうけど
    思わなくなったら、人間的にお終いだという気がする。

    他人に聞き取りにくい不便さを感じさせているのは事実だろ。
    それでも何も言わないで普通に会話をしてくれる人たちの厚意に
    甘んじてのさばるようなマネはしたくない。
    ハンデも私の一部なんだから、尻拭いも自分でせにゃな。

    コンプレックスだけど、正直恥じてもいるけど
    純粋に質問してくる人には、落ち込まずに答えられる。
    しかしバカにしたり笑ったりする人には
    「幼い頃は喋る事すら出来なくて・・・」
    と、本人が罪悪感を持つように、空気を暗くしてやっている。

    人と違う、って事は、ただでさえものすごくコンプレックスになるのに
    その違う部分を、「ヘン」 だと容赦なく突っ込むその神経には
    多少の鉄拳を加えても良いだろうよ。

    コンプレックスは、解消しなくて良いと思う。
    自分の努力でどうにか出来る事は
    それをコンプレックスにする心のモロさを問題にすべき。

    自分がどうにも出来ない部分を持っているから
    それを印籠のようにかざして偉そうな事を言うが
    コンプレックスというのは、口にも出来ないほど深刻な悩みなんだ。

    私の場合は、言ったら親は泣くは友達は困るは
    ほんと禁句で、ひとり心の中で悩むしかなかった。
    こうやって書けるようになった自分を
    本当に強くなった、と褒めてあげたいぐらいだぜ。

    そもそも、解消 = 自分が気にしない、って事だろ。
    コンプレックスによって、得られるものも確かにあるので
    実質的な不便はあれども、そう悪い事じゃないんじゃないかな。
    気にしていて良い、と思えるようになったよ。
    弱い部分があった方が、人間、可愛げもあるし
    傷も意外なところで役に立つ場合もあって、結構重宝するぞ。

    こう思えるようになるまでに、長い時間が掛かった。
    傷も涙も、えれえ大漁豊作だった。
    今でもズキッとくる事はたまにあるけど、それも人生だろ。
    良い時だけ大事にしてたら、人生の大部分を損するぜ。
    悪い事にどう対処するか、で本性が問われるんじゃないか?

    正当化だろうが自己防衛だろうが、力技のゴリ押しで良いので
    まずは、どうにか自分で自分の気持ちの調整をして
    目前の悩み苦しみから脱却する事を優先すればいいと思う。
    後の事は時の流れで変動するから、焦る必要はない。

    対人的には、地雷の場所は公言しとく。
    そこを突かれたら、不愉快な顔をしてオッケー。
    ただ、地雷が多い or 1個でも威力デカすぎ なヤツは
    周囲に気を遣わせて面倒なので、中規模1個のみな。
    イヤな事はイヤ! でも、あとは全部テレレ~ン、という配分が理想。

    陰であれこれ言われるのは、社会の常なんで気にする必要はない。
    いらんちょっかいを出してこられて初めて、返り討ちにするだけ。
    でも基本、気楽に考えるのが幸せのコツだな。

  • 辛いとき

    自分が直接解決はできないけど、辛い事ってあるだろ。
    大抵の事って、努力すればどうにかなるだろうけど
    その努力をしにくい状況ってあるじゃん。
    実際は動けるんだけど、自分が介入する事で失うものの方が多いのなら
    ただ我慢するのが、正解になってしまう。

    こういう場合が一番辛くねえ?
    自分が当事者なら、正当な言い分を掲げてオラオラ突っ走れるし
    努力まい進をしてると、どんなに辛い立場にあっても
    ひとすじの光が見えて、それが希望になる。

    だけど自分にも、ものすごく影響があるのに
    それを指摘できない、対策できない、口出しできない、これだと最悪で
    詰まった排水管の流れの悪い水を、早く流れてくれ、と
    じっと見つめるかのようなストレスが持続して
    もう、ほんとやっとられん。
    こういう時には、どういう風に沈んだ気持ちを立て直す?

    私には呪文がある。
    「まあ明日死ぬかも知れんし」

    えらく後ろ向きな言葉だが、今日する今するすぐする! と
    せっかちで忍耐力のない私には、この言葉は
    「そんなに焦らんでも」 と、馬を 「どうどう」 となだめるような
    意味を持ち、とても有効なのだ。

    しばらく静観した方が良い状態なのに、突っ込んで大ケガをするのは
    “待つ” という行為が、私にとってとてつもなく辛い事だからだ。
    辛い思いをするぐらいなら玉砕したがマシ、という選択をしてしまう。

    しかし、人には人の違った言い分がある。
    自分が我慢できないからといって、人に強制をするのは
    他人の人格を無視した傲慢な態度に他ならない。

    時と場合に関わらず、自分のペースで強引に進めて行くのは
    自分のためにもならない事もある、と気付いたので
    この呪文をあみ出したのである。

    まあ明日死ぬかも知れんし、そうなったらなったでそれが自分の寿命で
    上手くいかない人生で、得る物がなかったと思うのは
    あるはずの価値に気付けなかった自分の頭の悪さで、自業自得。
    思いがけずに生まれ、思いがけずに死んでいく
    それが人間の真っ当な宿命さ、と腹をくくるのさ。

    この 「まあ明日死ぬかも知れんし」 が、効かない時もある。
    イライラするのは、まだエネルギーが残っている証拠。
    もう、イライラすら使い切って、激しく落ち込んだ時には
    「死ぬかも知れんし」 どころか、「死にたい」 になる。

    こんな時には、自分を容赦なく見捨てる。
    死ぬかも呪文は、自力慰めの言葉であって
    慰めてダメなら、もう知ったこっちゃねえよ。
    自分で自分をあざ笑って、冷たく突き放してやるぜ。
    「で、クヨクヨして事が解決するんなら、いくらでもしとけよ。」 と。

    自分で自分を可哀想なんて思うヤツにつける薬はねえ。
    そんな時は頭が冷えるまで放置、その内に被害者意識にも嫌気が差すから
    そしたら脳内を、以下の説教モードに切り替える。

    クヨクヨしてたら、体の免疫力も落ちるし
    湿気が多い所にカビが生えるように、陰気臭さは不幸を呼び込む。

    暗い顔をしたヤツに誰が近寄りたい?
    マトモな人間は遠ざかっていく代わりに
    壷売りだの、健康食品売りだのが寄ってくるようになるぞ。
    人の不幸を糧とするヤツらは、疫病神そのものだろ。
    そんなヤツらに付け込まれたくはないだろう。

    そういう自尊心が少しでもあるのなら、辛い時でも明るくしてろ。
    どうしても変わらん状況の時に、自分がフツーに過ごして何か損になるか?
    普通に過ごせない状態なら、さっさと精神科に行くべき。
    変わらない辛い状況を乗り切るには、平常心が大事になってくる。

    これ、本当にそうだから。
    普段の生活でも、人に明るく接していると優しさを貰える。
    その貰った優しさで、より一層幸せな気分になる。

    幸せってのは、チェーンが張り巡らされた状態になっていると思う。
    自分からもチェーンを伸ばして、フックを引っ掛けなくては繋がらない。
    好感持てる態度は、幸福チェーンを人に投げつけているってわけ。
    (笑顔の裏で、とんだ暴行だが。)
    だから、無理にでも笑えるぐらいの平常心は保っておくべき、とな。

    人間は3つの機関で構成されている気がする。
    頭と体と心。
    この3つはお互いに影響し合っているけど、別人格だと思う。
    心が一番やっかいで、自分本位の我がままな空気読まずで
    体は心にたぶらかされて、嘘を付く事が多々ある。

    冷静に全体を見てよく考えれば、わかる事なのに
    何でそう、狭い視野でキイキイ騒ぐかな。
    心、かなり足引っ張りのバカじゃねえ?

    なので体と心を平定するには、頭が分析して
    慰め → 叱咤 → 突き放し と、順繰りに対応していかねばならない。

    何が問題で何が大事でどうすべきか、なんて、わかっているんだよ。
    そしてそれをちゃんとやってる。
    だけど、この心のクソバカ野郎が、ほんと聞き分けがねえんだ。

    真に戦うべき相手は自分の心。 いっつもいっつもよお。

  • 心の迷い

    人間誰しも、迷いの中に生きている。
    自分が悪いんじゃないか、自分がおかしいんじゃないか
    どんなに正しい事をしているつもりでいても
    ちょっとの予想外で、途端にそう迷い始める。
    ひとつの事を最初から最後まで、迷いなく遂行できる機会など
    人生にそう何度もあるものではない。

    そういう経験を重ねると、長い人生など迷って当然だと思えてくる。
    期間限定の事ですら、あっち行ったりこっち行ったり
    心がグラグラ揺れ動くのに、80年 (平均) もの歳月の中
    自分が何のために存在しているのか、とか迷うのは
    ごく普通の過程のひとつでしかない、とわかってくる。
    迷うのが、自然。

    しかし迷っている人は、常に孤独感をも持ち合わせている。
    自分以外の人々は、ちゃんと地に足を付け
    目的と信念を持って生きていっているような気がしてならないのか
    あるいは、何も考えずにダラダラと生きているように見えるのか
    他人と自分を見比べたら、このどちらかの感覚を持つのだが
    いずれにしても、自分は他の人と違うんじゃないか
    という疑問は、疎外感に繋がる。

    ところが、大なり小なり人は皆、多種多様な事で迷うものであって
    今この瞬間も、迷宮入りするヤツが世界のどっかに必ずいて
    自分が特殊どころか、実はその他大勢の中の一員なわけだ。

    人は迷う時は、全身の窓や扉を閉めて回る。
    迷っている時は弱っている時だから
    そこに外敵が侵入してきたら、ひとたまりもなく
    ちょっとの刺激で心が激しく傷付くため、自己防衛の本能が働くんだな。

    つまり孤独だから迷うのではなく、迷うから孤独を感じるのである。
    ここを間違えて、自分をいらん方向にまで追い詰めないようにな。

    この、誰でも陥る迷いに堕ちない人がいる。
    今までに数人見た事があるが、実にちゅうちょがない。
    共通点としては、物の考え方の自己基準が絶対的なのだ。

    何かいっちょ支障が起こった時には、他人事で他者を責める側に回る。
    こういう人を見ると、義務教育時代の理不尽な “連帯責任” とやらも
    やっぱり必要な倫理教育だったんだな、と思う。

    人生には、自己嫌悪や自省というのは絶対に必要である。
    迷いという心のブレがないのは、一見ラクそうに見えるけど
    しなりのなくなった竹は、折れたら最後。
    ものすげえ一か八かの、そんなヒヤヒヤもんの大バクチを
    人生を賭けてやりたくはない。
    特に、私的には絶対に負ける気がする。

    だけど人間、必ずどこか弱い部分はあるもので
    一見ブレがない人でも、自分が見ている面だけでブレていないのであって
    それが際立つために、裏面のブレが見えにくいのであろう。
    やはり、“人は皆、平等” の法則は不動である。

    結論として、人生の迷いはとても大事なもの。
    歳を取って、経験を積んだからか、はたまたボケたせいなのか
    以前よりブレなくなったら、途端に自分の劣化速度が大幅に上がったので
    迷いの感覚とは、得たい人のための最良の策だったんだな、と
    つくづく実感させられている真っ最中だからである。

    人間、迷えなくなったら、後は転げ落ちるだけだぜ。
    迷っている自分を、誇って良い。
    確かに進んでいるという証しだから。

    さて、迷い探しの旅にでも出るとするか。

  • 人と比べる

    私が幸せでいられる理由のひとつに
    “他人と自分を比べない” という性格があげられる。

    これだと、環境の具合や自分の不都合が明確にされないので
    幸・不幸を自己申告で納得できるという利点があるのだ。
    ただ、同様に他人同士を比べる事もしないので
    状況が把握できずに、空気が読めない人になってしまう危険性もある。
    てか、私はなってしもうとるようだ。

    普段から人を比べて判断基準にしている人は
    ひがみ、ねたみ、卑下、嘲笑、見下し をする事が多い。
    これが人間模様ってやつか、と興味深いが、ふと気付いた事がある。

    そういう人と話していると、今でもその人に中心軸があるのがわかるのだ。
    私の中では私自身は、世界の端っこでその他大勢として存在しているのだが
    その人の世界では、その人が世界の中心なのである。

    だから何を見ても聞いても、「(自分と比べたら) ○○だね。」
    という、( ) 内付きの評価をしているみたいだ。

    私の場合、高校の頃に中心軸が自分からどんどんズレていくのを実感した。
    もう自分が世界の中心じゃないんだな、と悲しかったのを覚えている。
    何があったわけではないけれど、「まだ子供だし」 から
    「もう大人なんだから」 に、周囲のセリフが変化していった事かな。
    高校にもなってやっと? って感じだが、私はアホウだったんでな。

    こうやって人は大人にさせられていく、と思い込んでいたが
    大人になっても、人と自分を比べている人は大勢いる。
    大人 = 自立 だろうけど、自立 = 比較しない ではないようだ。

    常に世界に自分自身が存在する事の、良し悪しはよくわからないが
    バトル場面が多すぎて大変じゃなかろうか、と思う。

    どうも勝ち負けも自己判断をしているようだし
    「自分に自信がない」 と思う人は
    その脳内バトルで勝手に連敗しているからじゃないのか?

    私のように、空気読まずのマイペースに思われるのも最悪だが
    たまには勇者を休んで、城の王子あたりになっといたらどうだ?
    (王様だと、荷が重いぞ)

    とか言う事自体、ノホホンとしているようで鼻につくかも知れんが
    私は私で、“私” というモンスターと、日々闘っているんだよっ。
    私の不幸は全部こいつのせいなのに、凶悪すぎて全然制御できん。
    こいつ、私の人生RPGのラスボスなんじゃねえの?

    ああ、もしかして、他人と比べる比べないの分かれ道って
    自分の中の悪魔に気付いてるかどうかかも???
    背後に牙を剥いたケダモノが潜んでると知ったら
    ウカウカよそに気を取られてもいられないと思うんだが。