人を信じられない人、に対して、人は 「疑り深い」「寂しい」 など
何かのマニュアルのように、哀れみのコメントを言う。
しかし私は、別に人を信じなくても良いと思う。
確かに自分が信用されてないと、情けない気分になるけど
じゃあ自分は人を信じているのか? と問われると
この、よく使われる “信じる” フレーズの本質が見える気がするのだ。
そもそも、人を信じるというのは、どの範囲でどういう深さでだ?
通帳と印鑑を預けて管理してもらえるレベルか?
「あの人だけは私の事をわかってくれる」 という思い込みか?
このどっちも、相手にとっては面倒な事じゃないだろうか。
騙すつもりがないなら、他人の金庫を預かるのは重荷だし
「わかってくれる」 と思ってくれるのは良いけど
いつ何時どうなるかわからんこの世の中で、不変のものはないので
トラブルの都度、説明をしてもらわないと相手も困る。
つまり人がよく思う “信じる” というのは、無条件ではないのだ。
信じるというこの言葉が、誠意の権化のように感じるので
メルヘンのような使用方法をされているけど
自分のことが一番信用ならん私からしたら
自分自身を信じられんのに、人にそこまで気持ちを寄せるのは
責任の押し付けにも思えてならない。
実際に私は親族からは信用されていない面があるし
私も真意を相手に訊かないと安心できないのは
完全に信用していないからだろう。
しかしバスや電車には平気で乗る。
事故は起きない、という信用をしているわけだ。
信じる、ってひと言は、こんだけ幅広い意味を持つのに
人がこの言葉に想うことが色々あるのは
心のよりどころになっているからかも知れない。
人を信じられない自分は、他人と深いところで繋がっていない
という悲観的な錯覚も根深くある。
確かに信用できる人の方が、付き合いも安心して出来る。
しかしその信用は、見て見ぬフリをしている場合が多いと思う。
よくある例では、夫婦の不仲の相談を受けた人には
原因が夫の隠れた浮気のように思えても
妻はその可能性を受け入れない、とか
帳簿が合わないけど、経理を任せているのは身内なんだし、とか。
信じるという言葉を隠れ蓑にして、逃げているだけにしか思えない。
このように、信じている、という態度は
“情報をシャットアウトしている” と、同義語の場合って多くないか?
だったら、情報を取り入れる = 疑う と責められるのか?
こう思いたくなる事が時々あるので、私の場合は
信じる時は、「裏切られても許す」 という決意をしている。
コツは、そういう時の自分の世界の軸に、他人を立てないようにするんだ。
すべて自分の決断、と覚悟しておく。
他人を恨むより、自分のバカさ加減をあざ笑った方が、人生ラクだと思う。
あざ笑いも笑いには違いないんで、まだ明るい気分だし
他人の事はどうこうしにくいけど
自分の事なら自分でどうにか出来るだろ。
“気が合わない” は、付き合えない理由にはならない私の感覚では
“信用できない” もまた、付き合えない理由にはならない。
そりゃ、窃盗癖や虚言癖のある人との付き合いは論外だけど
普通の相手となら、面倒くさくてもギャアギャア問えばいいわけで
充分なセッションなしで深く繋がれる、とか言う幻想も持っていない。
親子だって夫婦だって、その都度の話し合いはとても大事だしな。
結局、“信用” っていうのは、自己満足だと思う。
私は純粋で美しい気持ちであなたを信じているから
そんな私の期待に応えられないのなら、あなたは悪人ね、みたいに
「信用している」 という言葉は、相手を縛りかねない呪文である。
他人の人格を尊重するのなら、「ここは信じられる、ここは用心」 と
相手の性格を細切れに判断するのが、双方の負担にならずに済む。
何より “自分の信頼” って、世界にとってそんなに大事か?
私ごときに信用されても、屁の突っ張りにもならんだろうー。
自分の小ささをわきまえて、期待をせずに希望を持つ
というワザを身に付けた方が、生きやすくなると思うんだが。
何を書いとるのか、自分でもわからなくなってるんだが
要するに、そんな深刻に考えんと腹をくくったら気楽にいこうぜ
って話なんだけど、ユルユルすぎるか?