カテゴリー: 人生の思想

  • 自分に自信を持つ

    頭も性格も顔も悪いくせに、無意味に自信満々のヤツっているだろ?
    (あっ、こっち見るな!) あれ、何でだと思うか?
    それは、愛されてる自覚があるからだ。

    具体的な事例じゃなく、漠然と自分に自信がなくて
    そのせいで色んな事が上手くいかない、というのは
    愛されているという自覚が持てないヤツに多い気がする。

    こういうタイプは、無意識に愛に渇望していて
    私から見れば、周囲に充分に愛があるのに贅沢である。
    どんだけヒーロー扱いされれば満足なのか
    と、突っ込みたいぐらい欲深いと思う。
    向上心なら良い事だけど、自分と周囲に期待しすぎだろう。

    愛は “自覚” して、初めて存在しうるものなのだ。

    私はよく批判されるし、えれえ嫌われる事も多い。
    だけどそれも “愛” だと捉えている。

    メールで罵倒されたり、ここにも非難コメントがたまにあって
    それはやっぱり、動悸や息切れがするぐらいショックだけど
    ああ、イヤなものを見た、と無視すりゃ済むものを
    わざわざ言ってきてくれるなど、親切な人だとマジで思う。

    店員のおねえさんが愛想が良いのも、客としての愛を貰ってるからだし
    親族が口うるさいのも、身内として気にかけてもらっているからだし
    近所の人の陰口も、自分の存在を認められているからだ。
    人は生きているだけで、毎日愛のやり取りをしているのだ。

    どうした “イイ性格” だと言われそうだが
    嫌う = 気になる = 愛 という三段論法。
    一番愛のない反応は、“どうでもいい” である。

    これは極論だろうな、と常々自分でも思っていたが
    先日TVで、マザーテレサ (だったと思う) が
    似たような事を言っていたと知り
    (そのせっかくの名言も忘れてしもうたが)
    ほら見た事か! と、高笑いをしたさ。
    世界的な偉人は、益々私を調子づかせてしまったわけだ。

    世の中に、愛された事のないヤツなどいない。
    何故かっちゅうと、産まれてきた事自体が既に愛された証拠だからである。
    各々事情はあれど、妊娠中ってすげえ辛いらしいし
    出産ともなると死の危険があるし、育児などそりゃもう大変で
    そこに愛がひとかけらもなかったわけがない。
    関わった人が何と思おうと、言おうとだ。

    愛があればすべてを乗り越えられる、とは決して思わないけど
    その愛に対する感謝を持っているのといないのとでは
    人生を歩むラクさに、かなりの差が出ると思う。

    自分に自信が持てない人は、まず生きている事に感謝をしてみろ。
    良い事などひとつもなくて、辛いばかりだとしても
    だからこそ、今まで生き延びてきた事が奇跡だと思え。

    不幸なヤツほど小さな幸せを探し始めるが、それが正解である。
    せせこましい話かも知れんけど、幸せなどその積み重ねなんだよ。
    不満をつのらせるより、そういう自己啓発みたいなものに
    忙しくしてる方が、よっぽど実りがあるってもんだろ。

    ちなみに、私は自分に自信があるか? と問われたら
    「よく考えると、ない」 というのが答。

    そもそも、そういう事をよく考える必要などあるのか?
    自分の価値や意味など、答があるものなのか?
    仮に価値がなかったとして、だから何なんだ?
    自分が存在している事だけは、紛れもない現実だろう。

    えっ、ここまできて、タイトルをひっくり返すような方向? だが
    そういう自分で自分の首を絞めるような思考をし始めたら
    ちょっとウツ入ってるな、と思った方がいい。
    そんな哲学は自傷行為にも等しいから、考えるべきではない。
    生きてるだけで丸儲け、で良いじゃん。
    それ以上の事を望むのは、絶好調の時にしろ。

    この意見を、「生温い」 と思うヤツは
    苦難の道を自ら好んで歩いていないか?
    幸不幸など、自分の感覚が決めるものだから。

  • 自分への評価

    人生に失望するタイプって
    2つの考えが軸になっている場合が多い気がする。

    ひとつは、評価を求める。
    もうひとつは、他人と自分を比べる。

    この2つは、決して悪い考えではなく
    むしろ向上心を作る要素にもなる、有効な “意欲” である。

    では何故この2つが、挫折の原因になりうるのか。

    ひとことで言ってしまえば、「望むだけ」 だからだ。
    この2つの “希望” がはらんでいる危険性に目を向ける事もせず
    自分がちょっと何かすりゃ、他人から賞賛を浴び
    常に一目置かれる立場になりたいと願っているだけの態度で
    それが叶うわけもねえのに。

    てか、実際にこんな立場のヤツは、宗教の指導者ぐらいしかいねえよ。
    あっ、だから宗教にハマるヤツが多いんか?
    そういや、教祖、確かに一度なってみてえよな。

    こんな極端な例を出さずとも、人は皆
    自分が思っているよりも、ほんのちょっと上の評価を欲する。

    だが考えてみてほしい。
    おめえは他人を褒めて、それを相手に伝えてるか?
    「おまえは良いよな~、頭が良くて」 みたいな
    ヒガミ混じりのグチ風味じゃなくて、純粋な賞賛。

    してねえだろ、思っても滅多にしねえだろ。
    自分がしねえ事を、何で他人に求めるかなあ。

    評価ってのは、自分の知らないところで下されるものである。
    そしてそれは、良い評価にしろ悪い評価にしろ、大抵が図星を突いている。
    そんなはずじゃない、というような意外な評価だったとしても
    他人は自分の知らない自分をも見抜いていたりするもんだ。

    ここで素直に我が身を振り返る事が出来るかどうかが
    そいつの “質” になるのである。

    簡単な方に流れるのも良いけど、どっちに行こうが
    自分のした事の責任は、決して消えずに自分に付きまとう。
    「違う」「皆わかっちゃいない」 と、拒否するのが
    果たしてラクで簡単な道なのかも怪しいな。

    挫折というのは希望と対に語られるが
    挫折がイヤなら希望を持たない、なら済むかというと、そうでもない。
    人間には心という、やっかいなものがあり
    それが傷付くと、大なり小なり挫折感を味わうからである。

    そもそも、何をもって “挫折” と定義するかは個人差で
    挫折のハードルが低いヤツは、自己愛が強い傾向にあると思う。
    愛するものは、つまらないものであってはならないので
    よって自然と自己評価も高くなる。

    (書いてて、ふと思ったんだが
     ヴェルタースオリジナルキャンディー だっけ?
     あのCMって、教育に悪くねえ?
     “特別な存在” って、ものすげえ危ういキーワードだよなあ。)

    傷付く = 挫折、優れている = 愛される
    こういう制約を自分の中で、わざわざ組み立てるのは
    自滅へのカウントダウンを始めるのと一緒である。

    自分の望む評価を得るための、努力と改革を惜しむのなら
    分をわきまえる潔さを身に付けるべきである。
    挫折を自己製造する必要は、どこにもないのだから。

    自分の “言い分” とやらを、後生大事に育てた結果
    他人を傷つける、という方向に走ってほしくない、と切に願う。

    「他人と自分を比べる」 については、またその内にでも。

    08.8.26 人と比べる ← ちゃんとアップしたぞー。

  • コップに水

    08.6.2の記事に 「コップ1杯の水に拝む」 と書いたら
    「宗教?」 と聞かれたので、追記。

    この行為はある意味宗教的だが、宗教ではない。

    毎朝、コップに水を汲み、高い場所に置いて手を合わせる。
    仏壇や神棚があったら、それに沿った作法が一番だけど
    学生さんだから、“気持ち” だけで充分、と
    タクシーの運転手さんは言った。

    もしこの時に宗教勧誘をされていたら、入信したであろうほど
    心が弱っていた私にとって、このタクシーの運転手さんの
    常識の範囲内での助言に、今でも感謝している。
    違う人に出会ってたら、今頃ツボを売ってるかも知れんのだ。

    とにかく、えれえ意外な方法ではあったが
    他に何の術もなかったので、言われたとおりに
    毎朝コップに水道水 (!) を汲み、冷蔵庫の上 (!) に置き
    手を合わせて祈った。

    ご先祖様に感謝を、っちゅう話だったが
    「神様、今日も一日よろしくお願いいたします」
    とか、願っちゃっていた私は、図々しいにも程がある。
    しかも神も仏もチャンポンの物知らず。

    人間、すがるものがあれば救われるもので
    このムチャクチャな祈祷も、毎日続ければ効果が出てきた。

    多分プラシーボ効果と似たような作用だと思うが
    何もない荒野に立つより、崖を登っている方が
    方向性が見える、っちゅうか、そういう感じ。
    祈りってのは、1本のロープと同じ役割りを果たすようだ。

    何か心の拠りどころがあると、気持ちがラクになる。
    この “お祈り” で、パニック障害みたいなんを克服した時に
    宗教って必要な人もいるんだな、と実感した。

    と同時に、自分は絶対に宗教には入らないであろう事も確信できた。
    人が用意してくれた祈りの場など、私には必要ないからである。
    祈る相手も場所も方法も、自分で作れば済む。
    大事なのは感謝する気持ち、それだけなのだ、と悟ったのである。

    コップに水は、2年ぐらいしかやってない。
    バチ当たりな事を言うが、面倒だったのだ。 ほんと、すみません。
    でもその代わりに、夜寝る時に布団に入って
    「今日も一日ありがとうございました」 と、“思って” から寝る。

    続きゃ何でも良いんだよ。
    私は宗教家ではないけど、信仰心は持っている。

    このコップに水、の話をすると、大抵のヤツは気色悪がる。
    本当は何かの宗教をやっているんじゃないか?
    と疑われるのなら納得だが、何故かそれは思われない。
    問題は、すげえ個人的に、何かの “儀式” を
    やってると嫌疑をかけられる事。

    ほんと常識でものを考えてくれよ。
    普通のヤツが、家で何の儀式をやるっちゅうんだよ?
    私は思想家でもないし、確固たる主義主張も持っていないし
    ナチュラリストでもベジタリアンでもエコでもない。
    妙な民族衣装も着てねえし、そんな疑惑を持たれる要素は何ひとつないね。

    こんなごく普通の私でも、祈り系の話をすると誤解されるので
    やってみようと思うヤツは、口外なしの一子相伝の秘儀にしとけ。

    コップに水も、形から入りたいならいいが、家族がいる場合はやめとけ。
    布団の中で脳内で祈るだけで充分だぞ。
    神様や仏様は人間と違って欲もないから、凡人に高望みはするまい。

  • 悩みはない!

    「悩みがなさそう」 というのは、たまに言われる。
    そう言われるのは嬉しい事である。
    何故なら、悩みはすぐ対処するように努力してきたつもりなので
    人にそう見られるというのは、それが割と叶ってるという事じゃないか?
    (「悩むほどの頭を持ってなさそう」 と思われてるのかも知れんが)

    “人のオーラが見える” という人がいて
    その人に自分はどう見えるかを訊ねたら
    「あなたは、とても苦労してきた人ですね」 と言われ
    そんな事を言われたのは、生まれて初めてだったので
    ものすげーーーーーーーーーーー驚いた!!!!!

    何故そう感じるのか問いただしても、とにかくそう見える、だけだし
    冷静に思い返しても、そんな苦労したような心当たりもない。
    そりゃ大なり小なり辛い事もあるが、生きていれば自然な事で
    そう取り沙汰すような特別な経験でもない。

    もしかして幸薄そうに見えたんか? と、すげえ落ち込んださ。
    せんでいい苦労をしているヤツは、概して不幸そうに見えるので
    私がもし苦労をしているとしたら、それは絶対に
    わざわざしなくてもいい苦労に違いない、と断言出来るわ。

    人の悩みを聞いて答える時に
    よく、「何でそんなに割り切れるの?」 と、不思議がられる。
    ものすごくドライな人間に思われがちである。

    以前にも書いたが、割り切れているわけではない。
    自分なりに結論を出し、この問題はこれで終わり! と、〆ても
    時々その事についてボンヤリ考えている自分に気付き
    やっぱり引きずっているんだろうか? と愕然とする。
    決して良い気分ではないので、これがストレスというものなんだろうか?

    人間は他人の事はよく見通せても、自分の事は曇ってよく見えない。
    私が人に相談をした時に、その場で答が出るのがそりゃ最上なんだが
    そんなラッキーな事は滅多にない。
    でも、「そんな事は些細だ」「誰でもそんなだよ」
    みたいに言われると、ものすごく救われる。

    他にもっと大きな問題があるのに、このぐらいで悩んでいる自分は
    何て情けないヤツなんだろう、と反省したり
    皆、耐えているんだから、自分も頑張らなきゃ
    という、ある種巡礼者のような気持ちになれるからだ。

    だから私も人の相談には、それを論理的にしているつもりなのだが
    脳みそのなさと人徳のなさの合体ワザで、上手くいかない。
    とんだ能天気バカに思われるのが関の山である。
    そして、1行目の言葉に繋がる、というわけだ。

    そう。 私に悩みはない。
    あるのは、隠しファイルにロックを掛けて閉じ込めてるのに
    時々自発的に出てくる解決できない問題と
    漠然とした得体の知れない不安だけだ。

  • 幸せって何?

    この答を、多分私は知っている。
    しかし最近は、この答がそう大事な事でもない気がしてきたのだ。

    よく考えてみると、人生、幸せになる必要もないんじゃないのか?

    えれえ投げやりに聞こえるかも知れんが
    本当にこの “幸せの価値” について、疑問が生じているのだ。

    元々私は、欲の薄い性格だったんだが
    (こう書くと、えれえ良い人のように聞こえるけど
     単に欲を持つほど、頭の良いガキじゃなく
     そのままズルズルと大人になっただけ、というのが真相だ。)
    年を取るというのは、どうも性格上では
    濃い部分はより濃く、薄い部分はより薄くなるらしい。

    私の場合、長生きするほど自然解脱の様を呈してきている。
    良く言えば即身仏状態、悪く言えば生き腐れ?
    それにあらがおうとして、ここで自画自賛に励んでいるわけだが
    ま、実際そこまで無欲にもなれず、境界線をウロついている
    中途半端な立ち位置にいるのが現実。

    欲というものの根源は、幸せ願望ではないのだろうか?
    これは悪い事ではなく、エネルギーの元であり
    生きていく上では、最重要な要素だ。

    欲がないのは、生きる力がないのと同じ。
    その欲がほどほどで健全なら、それ以上にない良い糧となる。

    しかしそのエネルギーがあらぬ方向を向くと、危機が待つ。
    宗教や思想にハマったり、生きる価値を問うたりする。
    ない答を探すと、終わりのない泥沼に陥ってしまう。

    幸不幸とは、本人の脳内認定でしかない。
    個人の脳内で思っているだけに過ぎない。
    つまり考え方の問題でしかないのだ。

    どうしても自分が不幸に思えて、それに納得がいかないのなら
    どこぞの真の世界で、ランクアップするために
    今生では修行のために生まれてきた、ぐらいに思えば良い。
    今現在を嘆く必要など、まったくない。

    何故こういう事を考えたかと言うと
    幸せにこだわるあまりに、辛い生き方をする場合があるからだ。
    近付きたいと思うがゆえに、益々遠ざかる。
    これが悲劇じゃなかったら何なんだ?

    幸せとは、頑張ってならなくても良いんじゃないのか?

    私も時々そういうループにハマる。
    で、ジタバタしまくった後に、ようやく悟る。
    人生、どっちかに収拾を付けなくても良いんだよな、と。

    今年は結構あがいた年だったので、自省の念を込めこれを書いた。

    1月7日に、またお会いいたしましょう。
    それでは皆様、良いお年を。

  • 信じる事は美しいのか?

    TVドラマ 「ライアーゲーム」 の
    最終回3時間スペシャル “だけ” を観た。

    土曜の夜なので、なかなか観る機会がなく
    この3時間スペシャルもたまたま観たのだが、面白かった。
    何で観なかったんだろ、私・・・。
    (延々とダイジェストをやってくれてありがたかったよ。
     毎週観ていた人は激怒しただろうが。)

    このドラマの趣旨は、“人を信じる” にあると思う。
    この心理に関しては、私にはちょっとした信念がある。

    信じる事が美しく、疑う事が醜いわけではない。
    信じる事が善で、疑う事が悪でもない。
    どっちも人間に備わった、単なる思考回路なだけだ、というもの。

    人が人を信じる理由は、それは良くも悪くも
    信じた方が、断然ラクだからだ。

    信じてもらう事によって、人は救われるのだろうが
    信じた本人も同時に救われているのである。

    しかし人生、裏切られる事もある。
    もちろん私もそういう時は、普通にショックを受けるのだが
    人を憎む恨むという行為とは、ものすげえきつい事だと痛感した。
    そんな想いを持ち続けるなど、私の貧弱な根性じゃ無理。

    でも、人を信じるのはやめようとは思わない。
    疑うために、脳みそや神経を使うのもしんどいからだ。

    だったら、信じる時には覚悟して信じよう、と思った。
    つまり相手の、裏切る事になるかも知れない可能性も
    そういう場合の言い分も、予想した上で全部信じる。

    この判断が間違ってたら、自分のバカさ加減を嘆けばいいだけだ。
    これ、ものすごくラクである。

    それで被害に遭わないのか? と問われると
    頭が弱いので、結果が出てても多分わかってない。

    小さいヤツは小さいなりに、己の分をわきまえていたら
    受ける害も小さいものだ、という事だろう。

    信じる疑うという、人間関係の基本的な動作に
    善悪の定義付けをするのは、人生の足かせになると思う。
    こだわるヤツほど苦しむって寸法よ。
    ライアーゲームでも、皆おおごとしてただろ。

  • 幸せ

    「皆で幸せになろう」
    この言葉を真面目に言われたら
    言った相手がテンパってるか、マルチや宗教の勧誘のどっちかだ。

    聞くが、“幸せ” って何なんだ?
    これほど人によって違う意味の言葉もないだろう。
    こんな定義のあいまいな単語など、下心なしに口にできるわけがない。

    幸せという言葉を意識している時は、大抵が不幸な状況なのだ。
    満たされている時は、人はそうそう物事を深く考えない。

    だから、この言葉が気になる時は
    自分は結構辛いんかも、と疑うべきで
    間違っても他人に同意を求めて引きずり込んではいけない。
    相手がマトモな状態だったら、自分の評価が下落するし。

    そもそも、いつから人はこんなに幸せを追求するようになったのか?
    不幸でないなら、別に幸せでなくたって普通でいいじゃん、と思う。
    でも、それは志が低いのだそうだ。

    ふざけるな!!!

    幸せじゃなくてはいけない
    自分に価値がないといけない
    自分の人生に意味がないといけない

    欲張りすぎなんだよ!

    そういう事を考えまくるその精神状態が
    既に不健康だと、何故気付かない?

    動物や草木が自分の存在意義など考えるか?
    考えないと、生きている資格がないのか?
    人間だからと、どこまで思い上がっているのやら。

    ほとんどの人間は、普通にしててそれで充分だ。
    価値だの意味だの、生きてるだけで立派なもんだ。
    自分に価値付けをしようなんて、強欲以外の何物でもない。

    そんなはた迷惑で無意味な思考なぞ
    砂浜でもダッシュして、夕日に向かって叫べば消える。
    単なる気の迷いか、精神年齢が思春期かな、そんだけのもんさ。

    人様の思想にケチは付けたくはないが
    この、幸せ志向というのは、ほんとうっとうしいんだよ。

    自分ひとりで、その “充実した人生” とやらを満喫してれば
    こっちも何も言わずにヌルく見守るだけで済むものを
    こういうタイプは何故か、人を巻き込もうとする。
    人の生活にダメ出しをしまくったあげく、一緒に幸せになろうと誘う。

    能力を活かしきっていない、とか
    一生懸命に生きていない、とか、いらん世話だっつの。
    おめえ、すんげえ失礼な事を言ってるのがわからんのか?

    えれえ長々と力説する割には
    その “幸せ” とやらになるための具体的なビジョンが1個もない。
    自分の理想にだけ盲目だから、議論ができない。

    ちょっとでも論破されそうになると
    「やっぱりわかってくれないかあー (笑)」 と
    その、当然のような上から目線は何なんだよ?
    語尾の 「あー (笑)」 が激しく癇に障るんだよ!

    このタイプはちょくちょく目にするので、遭遇した場合は
    当たり障りなく、ただふんふんと聞くだけに留めるのだが
    こっちが何の同意も反論もしないと
    勝手に、“ただ日々を流されて生きる人” 認定してくれて
    それがまたムカつくのだ。

    おめえら、どっちに転んでも大迷惑なんだよ!
    平和に過ごしている人間に対して妙な電波を発するなよ。
    毒気に当てられてきっついんだよ!

    でっかい挫折に遭った人が、よくこのタイプに陥る。
    「人生、金じゃない」 と、ふたこと目には言うが
    まだ見苦しく 「金金」 言ってた方がマシだぜ。

    金の代わりに人情を使うんじゃない!

  • 開運の鍵

    気分的にすぐれない、とか、調子が悪い、とか
    最近イヤな事ばかり、という時ってあって
    貧乏神が自分ちの上空に停滞してる、って感じで
    こういうのって、原因とかないのに続いたりするよな。

    そういう場合は大抵、思考も空回りしてるので
    無理に外部に向かって動いても、ロクな結果にならない。
    まずは自分のテリトリー内をどうにかするべきだ。

    この時のポイントになるのが 光、風、匂い である。

    書いたら、妙な宗教っぽくって自分でもビックリだが
    妙な自己啓発にもこれは適用されているんかもな。

    ようするに、臭くて空気がよどんでいる暗い家にいたら
    当然のごとく、気分的にも落ち込む一方で
    そういう気分のまま生きていても、良い事は何ひとつない
    って言い分なのだ。 (特殊な嗜好のヤツは除く)

    何もやる気がしない時に、イヤイヤ腰を上げ
    家中の窓を開け、ダラダラと掃除をし始めても
    仕上げにルームコロンをふりまく頃には
    (お香はやめとけ。 マジで宗教と勘違いされるぞ!)
    ああーーー、気分爽快! となる。
    人間って単純なもんだな、と、そういう時に実感できる。

    これは体の清潔も同じ。
    入浴は穢れを祓う儀式と一緒である。

    出掛ける前にはみそぎのつもりでシャワーをあび、いざ出陣。
    帰宅後には、くっついて来た汚れを落とすつもりで
    洗っている内に、いつしかストレスも一緒に洗い流している。

    女性の場合、心の健康の一番の目安は美容である。
    調子が悪いと、まずメイクをするのが、とても面倒になる。
    お肌のお手入れすら億劫になったら、かなりヤバい。

    逆に言うと、マニキュアを塗ろうと思える時は
    元気ハツラツだと思って間違いない。

    元から美容面には一切興味のない人には当てはまらないだろうが
    それでも全体の雰囲気で、心の落ち込みはわかると思うぞ。
    ボサボサ髪に毛穴真っ黒、服ヨレヨレなど、まともじゃないだろ。

    毎日する行為も、流れ作業的に無感情でするのではなく
    自分を持ち上げる行為だと意識すれば
    何をしても幸運を導く儀式になるものだ。

    もういっちょ、これは根拠とかないんだが
    黒ってあまり良い色ではないと思うんだ。
    黒い服とか好きなんだが、運気的には良くない気がする。

    インテリアも明度の高い色を選んだ方が良い。
    黒い物が多いと、部屋が暗くなるし
    拭いても拭いても、すぐホコリが目立って不潔っぽいし
    第一、黒い部屋なんて、まるで忍者屋敷だろ。

    それに最近、何となく思うんだが
    濁った色って、マイナスオーラが出ている気がする。

    シックな色は好きなんだが
    自分のエネルギーが弱まっている時に
    そういう色を身に付けると、その色に生気を吸い取られるような?
    色って、エネルギーを与える色と、吸い取る色があると思う。

    これと同じ原理は、人にも当てはまる。
    一緒にいて、イヤではないんだが
    妙に疲れさせられる人っていないか?

    私の場合、そう感じる人って、プラス思考かマイナス思考か
    どっちかに極端に偏ってる人に多いんだよな。

    悲観的な単語を連発するヤツは、言うまでもなくうっとうしいし
    逆に、あまりにもポジティブシンキングなヤツは
    かえって、人の気持ちを逆なでしてくれる。

    「頑張ろうよ!」 とか、叫ばれると
    「そこまで元気が有り余っているんなら
     おめえが私の分まで頑張って、私をラクにしてくれよ」 となる。

    自分が揺らいでる場合に、こういうタイプの人に接触すると
    疲労が激しくなる事に気付いた。

    いずれにしても、自分で自分を認める事が出来ていたら
    周囲のあれこれに振り回されないものだ。
    しかし、人間はそういう地に足の付いた状態を
    ずっと維持する事は難しい。

    だから保険と一緒で、万が一の事態に備えて
    自分が浮上できる法則を見つけておくのが得策。

    で、割と万人に通用する方法が、“清潔” なのだ。

    忙しい、体調が悪い、何か知らんがやる気なし、とかいう時は
    そんなに身の回りにかまけていられないものだが
    それでも無理にでも清潔に暮らそうと心掛けると
    不思議なもんで、色んな事が上手く回っていったりするんだよな。

    だから行き詰ったら、とりあえず掃除をしてみるのも手。
    気分が変わって前向きな考えも浮かぶようになったりする。

    マイナスな流れから抜け出すには、光の力を借りよう。

  • 宗教

    以前のマルチ商法の話題のついでに、宗教も。

    私は本当は、無神論者である。
    (宗教とマルチ商法を並べて語るので、丸バレか?)

    でも、「万が一、神様がいたらヤバい!」 と思うので
    全否定はしない。 その時に慌てても遅いもんな。
    とりあえず、いるものだと思っとった方が安全だろ。

    まずわからんのが、神様ってどんな存在だ?

    世界を作ったってだけなら、単なる職人みたいなもんで
    作品 (地球) を壊す恐れがない限り
    人の生には、関心はねえんじゃね?

    番人的存在なら、人類はもっと罰が与えられて当然で
    それをしてないって事は、かなり基準がユルユルだろ。
    すんげえ大らかな判定だと思うぞ。
    そう、必死こいて拝まんでもいいんじゃねえのか?

    愛の源なら、もう何でもオッケーだよな。
    善悪と好き嫌いは別だし。

    人間は輪廻転生があるか?
    これも、「死んで終わりなら、それでいいよ」 と、思うんだが
    万が一にも、修業的生まれ変わりがあるとしたらヤバいんで
    とにかく、いたらん事はせんように気をつけている。

    あらゆる状況を想定して、リスクの軽減をしとかんとな。

    宗教と、この転生観はセットである。
    今生限りで終わりなら、何も努力する必要はない。
    次があると思うからこそ、保険が必要なんだろう。

    神様に寄進するのって、ようするにワイロだろ?
    より良いものに生まれ変わろうと、今の人生で修行して
    飛び級みたいに、一発逆転を狙おうという欲深い考えだと思う。

    夏休みの最初の1週間で、宿題を全部やっちゃって
    後はずっと遊びまくろう、みたいな。

    万が一いたら、あったらヤバい、と言いつつも
    とことん身も蓋もねえ言い方をしているが、恐くないのか?
    と、聞かれれば、まったく恐くない。

    神様ってのは、人間と同じ感覚じゃないと思う。
    計り知れない高次元的存在なんだろ?
    それを人間ごときの浅知恵で、どうのこうのできんよ。
    神様の価値基準なんて、想定できんって。

    もし、神様が人間レベルなら
    それこそ、一発逆転が可能なんじゃないか?
    妙な事をしてても、審判の時に泣いて詫びれば、情状酌量もあるかも。

    てか、修行転生があるなら
    私の前世って、きっと良くて昆虫あたりで
    石 (生きてるのか?) とか
    窒素ガス (もはや固体ですらねえ・・・)
    とかだったと思うんだよ。

    だって、今の私、ロクでもねえもん。
    今以下の前世って、絶対に人間じゃねえよ。

    それが人間に生まれて、喋ってるだけで大進歩じゃねえ?
    これで人様に、生きるか死ぬかレベルの迷惑さえ掛けなければ
    今生は大成功という事で、来世はもちっと利口に生まれるさ。

    一足飛びにあれこれしようとせんなら
    何とかやっていけて、それで良いと思う。
    ほんと、見事にナマケ者な言い分だがな。

    それに、神様が自分の存在をわかってほしいんなら
    わざわざ宗教なんかで代理人を立てんと
    自分が直接出てきた方が早くねえかあ。

    たまに空に出現して、叫ぶとかすればいいんだし。
    世界を作ったんなら、そんぐらいできるだろう。

    これをしないって事は、人間にとっては
    自分の存在が必要じゃないと思ってるって事で
    世界をどうこうしようという意図はないんじゃないのかなあ。

    では、何故、宗教が流行るのか?
    まで書こうと思ったが、深層の令嬢は体が弱いので
    疲れてしまいましたわ、おほほほ。

    これはまた次の機会に。

  • 嘘つく人々

    嘘。 これについて、最近考えが変わってきた。
    以前は 「嘘は良くない」 という小学校の道徳教育が効いてて
    自分は絶対に嘘は付かない、と、思っていた。

    しかし、よおおおおおおく考えてみたら
    無意識に付いているのである。
    「嘘を付かない」 と言ってる事自体、嘘だったわけで、とほほ。

    しかし、嘘の種類によっては
    あながち、悪い一辺倒じゃないような気がする。
    日常での嘘を付く相手は、自分にとって大事な人が多いだろ?
    嫌われたくないっていう健気な気持ちじゃないのか?

    私の場合の嘘は、叔母に 「ちゃんとしてる?」 と聞かれ
    ちゃんとしてねえのに 「してる」 と答えるし
    昼過ぎまでグダグダ寝ている時に、兄から電話があって
    「寝てたか?」 と聞かれ 「寝てない」 とか。

    もうほんと、すげえくだらん保身で
    普段はそういうのはまったく気にしてないんだが
    親族にだけは、何故か咄嗟に嘘を言ってしまうのである。

    これは単純に、普段から大きな説教をくらいまくっているので
    せめて小言は言われたくない、というあがきであろう。

    バレバレなのに、わけわからん力技な嘘で
    言い逃れをしまくる彼氏や夫がいるが
    多分それと同じ心理なんだろうなあ。

    悪い事を告白して懺悔するのは、一見正しく思えるが
    言った側は、言ってスッキリ、と
    重荷を降ろせて、そりゃよかろうが
    言われた相手は、その罪を受け入れて
    場合によっては許してあげなければならず
    すんげえ精神的に苦痛を強いられるので
    「わざわざ言うな! 一生隠してろ!」 って心境になる。

    この前TVで、夫が浮気をして、夫自身がその秘密に耐えられず
    妻に告白して許しを請って、妻は表面上は許したが
    本当はどうしても許せず、自分も浮気をして苦しむ、という
    ドツボ転落なドラマがあったが、それが良い例だ。

    夫が反省してて、二度と同じ過ちを繰り返さないのなら
    妻は一生隠しててほしかったんだろう。
    その葛藤が、妻を同罪に走らせたのだ。
    (私なら一生、下僕決定でこきつかってやるがな)

    男女関係系の大抵の秘密は、バレた途端に嘘に変化する。
    この場合の問題は、その大きさや密度ではなく
    それを隠し通せるかで決まる。
    罪をひとり密かに、一生背負って苦しむのも
    罰のひとつだと思って、耐えてのたうち回っとれ。

    普通の状況下での嘘は、悪意がない嘘が多いと思うが
    犯罪関連の嘘は、理解し難い。

    話題の画家の盗作疑惑も、日本人とイタリア人の画家の
    (和田なんたらとアルベルト・スギだっけ?)
    どっちかが嘘を付いているんだろ?

    絵を見ると、もはや “盗作” などと手ぬるいレベルではなく
    “模写” や “贋作” の域に達しているぞ。

    どっちも画家として上手くて
    普通に描いても評価されるはずなのに
    何故モチーフや構図を真似なければならないのかがわからん。

    というか、プロの画家を盗作してどうするつもりだったんだ?
    バレないとでも思っていたんだろうか?
    ここまで騒がれて、なお嘘を付くなど、あとどうすんだろう?

    奈良の長男が母親弟妹を殺して放火した事件も
    成績の事で父親に嘘を付いて
    バレたくないからやっちゃった、って
    おめえ、どっちがより怒られると思ってるんだ?

    てか、あれ、父親を殺すのが一番早くねえかあ?
    逆らえないヤツには嘘で逃げて、弱いヤツに危害を加えるって
    こいつ、未成年だが、根本的に犯罪者体質のような気がするぞ。

    嘘を繰り返していると、いつしか自分もその嘘に取り込まれて
    脳内で大嘘ワールドが展開し始めるらしい。

    これはすなわち “本当の自分” がなくなってしまう事。
    人を騙していると同時に、自分をも騙してしまっている。

    これで、法に触れるとか、人を傷つけていない限り
    良いのか悪いのかは、私には判断できん。
    “特殊な感覚の持ち主” としか思えないからで
    自分が正義の基本形の自信はないしな。

    色んな種類の嘘があると書いたが、総合的に考えると
    嘘とは、反省とセットで使用できるかが
    善悪の分かれ目になってくるだろう。

    というか、絶対にバレない技術と根性を持っていない限り
    嘘を付かない方が
    いや、嘘を付くハメになるような、いらん事をせん方が
    結局はラクだし、自分のためになるんだよな。