カテゴリー: 人生の思想

  • 何故 人を殺しちゃいけないの?

    上の問いの答は、真面目に答えるなら
    「命は尊いから」 しかない。

    大体、命が何故尊いのか? というとこから、よくわからん。
    なのに、一体何の洗脳なのか、「命大事」 の思想が
    こびりついていて、ハエですら殺すのに戸惑うんだよな。
    脳裏に芥川の “蜘蛛の糸” が浮かんだりしてさ。

    「仮死状態になってくれーーーーー!」 と
    ハエタタキを振り回し、結局ついうっかり
    「そこまでせんでも」 というほどミクロな厚みまで潰してしまって
    もう、内臓ビチャーで、余計に非道に陥ってるっつの。
    (ハエを潰したときに出る緑の液って何なんだ? 胆汁?)

    そんで後味の悪い事、悪い事。
    殺させるな! 私のテリトリーに入ってくるな!
    と、怒りがわくが、戦争なんて案外こういう感覚かも。

    こういうあいまいな答じゃ理解できんガキには
    「あなたの大事な人が死んだら悲しいでしょ?
     誰にだって死んだら悲しんでくれる人がいるの。
     誰にもそういう悲しい思いをさせちゃいけないのよ。」
    と、“自分がされて嫌な事は人にもするな” も、ついでに教える。

    これは要するに、不可侵条約的な教えである。
    「私もおめえにいらん事はせんから
     おめえも私に迷惑は掛けるなよ」 って意味である。
    “持ちつ持たれつ” “お互い様” の逆バージョン。

    別に誰が死んでも悲しくない、というアナーキーなガキには
    「犯罪を犯すと捕まるぞ」 で、しゃあない。

     犯罪を犯すと捕まるのは、法律違反だから。
        ↓
     法律とは、皆が安心して暮らせるための決まり事。
        ↓
     もし法律がなかったら
     道を歩いてても、いつ何時誰が襲ってくるかわからんし
     家に帰ったら家財道具残らず盗まれてるし
     そんな世界で幸せに暮らしていけるか?
        ↓
     だから自分のためにも法律は守ろうね。
     
    と、こんなもんでどうだろう?

    法整備が成されていない世界ってのは
    “北斗の拳” のリアル設定みたいなもんだ。

    一般民衆は、いつ賊が襲ってくるかわからん世界で
    ビクビクオドオド暮していて
    その内に、腕力の強い人間離れした (外見も) 悪党が
    「俺様が法律だ!」 とか勝手に言い出して、徒党を組んで
    機嫌の良し悪しで殺人とかしてくれるんだよ。

    こんな世界に誰が生きたいかあ?
    来るか来んかわからん世紀末救世主を待つより
    こうなる前に、一般民衆で一致団結して
    決まり事を作っておいた方が安全だろ。

    「命は尊い」 のは、もう充分にすり込まれているが
    人間は生きている限り、他の命を奪い続ける宿命にある。
    呼吸をするだけで空中の微生物?を殺す、とか言うし
    歩いてるだけでダニを踏み殺しているかも。

    命が平等で尊かったら、飲み食いすらできなくなってややこしいんで
    もう、すんげえザッパに 「共食いはすな」 が
    人としての基本中の基本でいいんじゃねえのか?

    ちなみに私は 「命は平等」 とは思っていない。
    ローマ法王と隣のおやじなど、比べるべくもなし。
    シャチョーと平社員ですら格差があるぞ。

    命の優先度は、そいつの未来性と社会貢献度で決まる。
    よって、私はとってもLight!
    村を救うために生け贄になってくれ、と言われたら
    しゃあないなあ・・・と、ズブズブ埋まっちゃうぜ。

    〆は、まさに “墓穴” だな!!

  • 掃除とモラルの関係

    ああ・・・
    また思いつきでややこしい題材を書こうとしてる・・・。
    途中で混乱してブツ切り、の予言をしとこう。

    住居が汚いヤツは、人に迷惑をかける。

    これ、結構みんな思ってる事だと思う。
    ゴミ屋敷レベルは、既に存在するだけで大迷惑だろ?

    でも、こういう周知の事実な事じゃなく
    極論な私が主張するのは “犯罪者の家は汚い” って説。

    この “汚い” ってのは、古いという意味じゃなく
    掃除をせず、乱雑な散らかり方をしてるって意味。
    (潔癖さゆえの犯罪ってのもあるだろうが、それは稀だから除外)
    何か独特のすさみ方があるような気がする。

    ようするに、清潔ってのはモラルだと思うんだな。
    今までの付き合いの経験上、これってすげえ関係があると確信する。

    部屋が汚い = だらしがない = 色々と迷惑な事をしてくれる

    きちんと “生活” をしているヤツはマトモだと思う。
    自分自身の経験上、部屋が散らかっていた時代は心も荒れていて
    小学校あたりの標語なんか、案外、的を射ているもんだな、と実感。
    (『着衣の乱れは心の乱れ』
     『美しい部屋は美しい心を育てる』 みたいな)

    これを元に考えると、マトモじゃないヤツは
    誰もマトモには相手にしてくれず
    孤独感やら鬱憤やらが積み重なって、途中もろもろは略で
    最悪の結果、ドカーンと犯罪に走る、と。

    ある意味これも 「犯罪者は環境に作られる」 って事か。

    物は散らかっているからゴミになるわけで
    きれいに整頓されてりゃ宝物にもなる。
    住む人自身がゴミを作り出しているのだ。

    ゴミに囲まれて暮らしているヤツは
    物の美しさにも気付かないだろう。
    そいつにとっては、世界も人の命もゴミ同然じゃねえの?

    生き様や性格は顔に出るし、暮らしも雰囲気に出る。
    人は色んな表現を全身でしてるんだと思う。

    などと偉そうに力説する私だが、もし犯罪を犯したら
    きっとマスコミ取材で罵詈雑言の嵐だろう
    と予想されるほど、知人の評判悪し・・・。 不思議だ。

  • あいさつ

    「おはよう」「おやすみ」「いただきます」「ごちそうさま」
    「いってきます」「いってらっしゃい」「ただいま」「おかえり」
    これらの言葉は、今でもつい忘れてしまう。
    というか、言いたくねえ。

    何でもかんでも親のしつけのせいにしとるが
    うちの家では、挨拶というのをしなかった。
    習慣がついてないと、どうしても面倒くさい。

    だがそれでは、“ちゃんとしたオトナ” として
    いかがなものかと思うので、努力している。

    そういや、「いただきます」 と、手を合わせるのを
    初めて見た時に、ちょっとビックリして
    ヒき気味に 「何の宗教?」 と、聞いた事があった。
    あれ、宗教に見えるよな。

    挨拶として、最悪嫌いなのが 「さよなら」。
    この言葉は大っっっ嫌いなので、あえて言わない。
    もう二度と会わないかも知れない相手にも
    「じゃ、またな」 と言う。

    というか、深刻な別れじゃなくても
    見送りとかが、するのもされるのも、苦手なのだ。
    お店によっては、車まで見送るとことかあって、そういうのも断る。

    友人と遊んでても、「んじゃな」 で、さっさと帰る。
    一緒にいた時から、ひとりになる時への
    場面展開に対する、脳の順応が悪いのかも知れん。

    挨拶じゃないが、「ごめんなさい」「ありがとう」
    この言葉は、人に面倒&迷惑を掛けつつ生きている
    私の人生の必需品である。
    毎日1回は言ってる気がする。

    だから、「ありがとう」「ごめんなさい」 を
    照れくさくて、なかなか言えないというヤツは
    人に迷惑を掛けてないヤツなんだなあ、と、感心する。

    あまりにも掛けまくってると、照れてる場合じゃねえんだよな。
    地べたの泥水をすする勢いで
    「申し訳ございませーーーーーん」 って心境になるぜ。

    挨拶のない生活は、不思議と潤いが足りない気がする。
    じゃ、うちの家が乾いていたかというと
    昼間は無口なとうちゃんの代わりに
    アクティブなかあちゃんがアホみたいな事を真面目にやってたし
    夜の飲酒後のとうちゃんは、グレたくなるほどハッスルしてたし
    うちの家は挨拶ごときじゃ、ビクともせん家庭だった。
    そういう家だから、挨拶がなかったとも言える。

    挨拶、ほんと大事だぜーーーーー。

  • 死にたい人へ

    今年一年の総まとめなんだが、えれえ不吉なタイトルだ。

    能天気に生きる私でも、よく 「生きるって辛い」 と思う。
    “人生プラスマイナス0” と、よく言うのはそういう経験から。

    今年は私にとって、辛い事がいくつも重なった年で
    「ああ、クソ死にてえ! 通り魔カモーン!」 と
    何度も思ったものだ。

    昔から、「早く人生が終わらんかな」 と、懇願していたが
    自殺をしようなどとは、一度も考えた事はない。
    それは何故だろう? と、自分でも不思議だったが
    最近、やっと答がわかった。

    私は、文房具や化粧品など、キレイな消耗品が大好きである。
    美しいものを大事に大事に使っていき
    使い切った時の、あの達成感が何とも言えない。

    たとえば消しゴムとか、途中で切っちゃったりしたら
    使い切った時の感動も半減だから
    大切に必要な時に必要なだけ使うのがコツなのだ。

    アイシャドウや口紅、色鉛筆やボールペン
    大好きだが、キレイな消耗品をコレクションはしない。
    きっちり、ひとつひとつ使い切るためだ。

    かあちゃんが死んだ時、とても羨ましかった。
    かあちゃんは、命を使い切ったのだ。
    だから、「死なないで」 とは思わなかった。

    長く辛い人生をきちんと生きて死ぬ
    この達成感はどれほどのものだろう。

    かあちゃんは感動に包まれて死んだと思っている。
    (不肖の娘を案じて、ちょっと浮遊したかも)

    波間に光が反射する初夏の海や
    冬枯れに凍える裸の木々を見る時、何故か命を感じる。
    多分、命とはとても美しいものなんだろう。

    だから私は自殺しないのだ。

    この世で一番貴重な唯一無二の美しい命
    これを使い切った時に、一体どんな気持ちになるだろう。
    一生懸命に生きるほど、その時の感動が増す気がする。
    寿命が尽きる時が楽しみでならない。

    が、よおく考えると、果たして私は一生懸命に生きてるか?
    私の命も美しいのか?
    何か、すんげえ汚れてる気もせんでもないが・・・
    など、一抹の不安もあるが
    とりあえず、私はこういう趣味なので
    「あいた、しもうたあー! こんな筈じゃ!」 になっても
    それはそれで、大どんでん返しで面白かろう。

    使い切りの醍醐味がわからないヤツ、
    まず、今使っている消耗品 (歯磨き粉とか) で
    使った事がない珍しい物を、次に使うために買ってみい。

    そんで、ルールを作る。
    「今使用中のをきちんと使い切らないと、新しいのを出さない」

    まだなくならないんだろうか、あとどれぐらいだろう
    と、イライラ思いつつ、それでも真面目に使っていると
    使い終わった時に
    「うおおおおお、やったーーーーーーーー!」 と、思えるぞ。

    こうやって、使い切りの味を覚えていく。
    そうしたらきっとその内、命も使い切らにゃ
    気が済まなくなるかも、ふっふっふ。

    自分の命を大事にするには、周りの者を、物を、大事にする。
    一見、関連性がないように見えるが
    これが案外、繋がっているもんなんだよな。

    来年も頑張って命をすり減らそう。
    焦らなくとも、必ずその時はやってくるのだから。

    読み返してみて、私がやたら死にたがっているように
    読めるかも知れんが、そういうわけではない。
    辛い時に 「ああ、神様! (どこの?)」 と
    思うようなもんだ。

    使い切りには根性と忍耐がいるもので
    そういう習性の私が途中下車なんかするもんかい。

    人生ってのは、大抵
    「楽しいー」 と 「辛いー」 が交互にくるもので
    誰でも死にたいと思った事の一度や二度はあるだろう。
    その辛い時を乗り越えるための
    私なりの考え方のひとつを提案しただけなのさ。

    いやあ、今年はきつかったー。