以前に “人に教える” で
「納得と理解はまったくの別物」 だと書いた。
これは、辞書では同じものらしい。
確かに単語の意味だけを見れば同じだろう。
常々、“悩む” と “考える” を別物だと言っている私の説も
上と同様に、多分辞書では同じものだと書かれていると思う。
(調べてから書けよ、と突っ込まれそうだが)
私が同じであろうこの2つの言葉を、「違う」 と言い張るのは
思考に心というものが介在してくるゆえに起こる矛盾である。
もう、初手から間違っているであろうが
脳というのは、心を納得させる器官だと思っている。
体中のあらゆる部位から入る情報は、まず脳に送られ分析処理される。
そこで過去に経験した事例だと、心は安心して次の行動に移れる。
しかし未経験の事柄だった場合には、心が不安になる。
つまりパニックを起こすので、それを落ち着かせるという処置になる。
ここで、「頭ではわかっていても、気持ちが納得できない」
という現象がしばしば起こりえるのである。
たとえば、親が病気で突然死んだ場合など
親は先に死ぬものだと、周囲の大部分の先例を見て理解していても
病気になったんだから、しょうがないと死を理解していても
心がそれを納得しない場合も多々あるだろう。
親しい人の突然の死など、頭ではどう考えても
心の底では納得など出来ないものだから。
逆に言えば、納得できる死の方が珍しい。
殺人事件の被害者遺族など、加害者が死刑になろうと
本当ならば納得できるものではない。
脳が、犯人の死と償いをイコールで結ぶように
方程式を必死に作って、心をなだめているにすぎない。
脳というのは、本来は情報の分析認識蓄積を行なう器官だが
それは心を説得するためにやっている面が大きいと思う。
物覚えの悪いヤツ、頭が固いヤツは
自分の脳ですべきこの説得作業を
教えてくれる他人に押し付ける傾向にある。
数学など、不変の法則がある分野なら良いが
というか、それなら納得もへったくれもないわけだが
世界は不条理に満ちているのに、その納得をさせてくれなど
他人に望むのは図々しい以外のなにものでもない。
そういうのを、“自分の頭で考えない” と称するのだ。
他国の紛争など、大抵が宗教観が根底に根付いていて
その説明をしても、無宗教の日本人には納得など出来ない。
そういう時は、事象として受け止めるべきなのである。
納得できないから、信じられない。
もっと他に明確な理由があるはず、と思うだろうが
それは自分の脳内のデータにないだけの話である。
物事を考える場合に、感情というのはよく冷静な判断の邪魔をする。
“納得” というのは、実に感情的な要素を多く含む。
人は往々にして、納得するために “考える” のではなく
“悩む” という思考形態をとる。
これは、感情が邪魔をする思考を、更に感情で処理しようとするので
肝心の本題に行き着くのに、どれだけ時間が掛かる事か。
そうやって得た知識は、ほぼ死守される。
状況が変わっても、時代が変わっても
そいつの中ではそれが固定されてしまい、応用や臨機応変はない。
新しい知識を得るのに、いきなり拒否反応を示すのは
知識取得に費やした自分の行為が、無になる事への怒りなのだろう。
そんだけグチャグチャ悩んでれば、労力を惜しむのも無理はない。
人間は感情の生き物で、感情を重視するのは当然だが
それも時と場合による。
常にそれに固執するパターンを作ると、逆に不利益になると思う。
おめえの納得なんか、知ったこっちゃねえよ
と、誰も何も教えてくれなくなったら、世界が更に狭くなると思うが。