カテゴリー: 自分語り?哲学?

  • イジメ経験談?

    社会的な問題なのに、これに関してはあまり言及しない私だが
    それには理由がある。

    それは、よくわからないからだ。

    私はイジメに遭った経験がない。
    と、思っていたんだが、昔の話をしていて
    友人から、私も結構なイジメに遭っていた、と教えられた。
    (イジメに遭っていた事が判明したあげくに
     ドドド鈍感の烙印を改めて押されて、もう踏んだり蹴ったりだった。)

    こんな私にイジメの事が語れるわけもなく
    ただ疑問だけがつのっていく。

    それは、イジメと “嫌い” の線引きはどこだ? って事。

    幼稚園の頃、「金を持ってこい」 と
    小学生男子に命令され続けた事がある。
    この時の私の解釈は 「友達ってお金が掛かるんだな」 だった。

    これは、「この子は普段お金を要求しないのに」 と
    不審に思ったかあちゃんが着いてきた事で
    カツアゲ者たちが逃げ出し、終わった。

    小学校低学年の頃は、高学年男子数人に毎日毎日、放課後に
    石を投げられるは、服を破かれるはの狼藉を働かれた。

    毎日ズタボロになって泣きながら帰ってくる娘に、かあちゃんは
    「あしゅらちゃんが可愛いからイジメられるのよ、ほほほ」
    と、間の抜けた身内びいきを言っただけ。

    バカガキなりに、「そんなわけあるかい」 と、信じなかったが
    これも 「男子って乱暴な遊びをするんだな」 と、思っただけ。
    これはその男子たちが卒業するまで続いた。

    もちろん、友達一同から無視された経験もあり。
    この時の理由は、リーダー的存在の女の子が
    「あの子、気に食わないから無視しよう」 と指示したせい。

    ターゲットが変わって、私への無視は止んだけど
    無視する理由がわからなかったので、言い付けを守らなかったら
    そういう “遊び” は自然消滅したようである。

    その他、教師による逆ひいきも多く、かなりの暴行を加えられてて
    ビンタで中耳炎になるは、投げ飛ばされて背骨をイわすは
    健康被害にも遭ったが、すげえ打たれ強くなったのは収穫である。

    私には無関係の事で、ひとり吊るし上げられる事も多く
    友人たちに 「何であんたばっかり怒られるんだろうね」 と
    不思議がられたが、これも 「運が悪い」 で済ませた。
    これは潜伏の “仰げば尊し” に、ちょっと書いている。

    中学の部活動の件は、潜伏の “トラブルメーカー1” に
    高校の一連の騒動は、潜伏の “秘密の花園 ~寮編~” にある。

    他にもほじくり出せば、もっとあるかも知れんが
    自覚がないんで、“イジメ” 経験としては自力では思い出せない。

    私はイジメに遭った事なんてない、と思うんだが
    上の事例は、すべて立派なイジメだそうだ。
    「何でそれでイジメられてると思わないの?」 と
    すげえ非難されるんだが、私的には
    イジメじゃなく、自分が嫌われたんだという解釈なんだ。

    嫌われる事自体、すげえ悲しくて辛いが
    自業自得な理由も絶対にあると思う。

    私は強いんではなく、鈍感なだけ。
    こんなヤツは、知らずにイジメをしている可能性もあるので
    決して、人畜無害な被害者サイドではないと思う。

    そして、こういう空気を読めないヤツは
    すげえ的外れな反応をするので、相手の癇に障り
    余計にヤられるようだが、何せ気付かないので、ある意味、幸せである。

    ここから、私の “バカ最強” 説はきている。
    ひとりで脳内に花を咲かせてりゃ、そりゃひとりで平和だろうて。

    私が望むのは、“イジメ” の定義をはっきりしてほしいって事だが
    多分、イジメはセクハラと同じで
    被害の有無は、当時者によって変わるものだと思う。
    被害者の自己決定権ってやつ。

    ニュースで見ていると、どう考えてもイジメではなく
    被害者が単に嫌われ者で、イジワルされてるだけでは? とか
    (嫌いだからイジワルするのも、最低なヤツだってのは大前提ね)
    それはもう暴行や恐喝で、犯罪の領域だろう、って事も多い。

    何でもひとくくりに、同じ単語を当てはめるせいで
    (しかもその単語によって、えらく軽い事に聞こえる場合がある。
     “万引き” “ストーカー” などもそうだろう?)
    物事の本質がぼやけて、解決に支障が出ているのではないか?

  • ホスト

    意外なのだか、やっぱりと思われるんかわからんが
    私はホストクラブが大嫌いである。

    理由はふたつ。
    まず、酒の飲み方が気に入らない。

    コップの一気飲みにも激怒するのに
    ビンごと飲むな!
    シャンパンタワーなど、ふざけるな!!!!!

    酒ってのはそういうもんじゃねえだろ
    どんだけ飲んでもいいが、もっと大事に飲めよ。
    口の両端からダラダラこぼして
    飲んでるフリをしてるだけで、飲んでねえじゃねえか。

    しかも1本何十万の酒をその調子で浪費しやがって
    何でその酒が高価なのか考えた事があるんかよ。

    いいか? 物っちゅうのはな、人の手が掛かれば掛かるほど
    値段も高くなっていくんだよ。
    その世界中の伝統を全部ドブに捨ててるのは日本じゃねえのか?
    恥を知れ、このバカモノどもがあ!

    もうひとつは、商売の仕方。
    客を金換算しかしないのは、別にホストに限った事ではない。
    それはどんな商売でも大なり小なりあるので仕方がない。
    だが、一晩に何十万何百万と使わせるのが気にいらない。

    事情は色々あるだろうが、そんなん関係ない。
    その一発逆転狙いみたいな感覚が嫌いなのだ。

    こいつら、客と長く付き合う気がねえだろ。
    搾れるだけ搾って、食い尽くしたら次、みたいなやり方が
    商売として真っ当とは思えない。

    客はわかってて行くんだから、構わんだろうが
    私は見ててイライラする。

    ホストの番組を見る度に
    女性が、飲みたい時に自分のペースで飲みたいだけ飲める
    キレイな男性が酌をしてくれる場所はないんだな、とガッカリする。

    と、イラ立っているところに、今度は “執事カフェ”ができた。
    これは好みかもー、と、取材番組を観たが、いかん・・・。
    育ちの悪い私は、お仕事でペコペコされるのが性に合わんらしい。

    やっぱ、やるかやられるか、という切迫した緊張感の中で
    戦いを制した暁の下僕扱いが一番だよな!

  • 女性への褒め言葉

    女性の機嫌を取るには、褒めまくるのが効果的だが
    言われて嬉しい言葉は、かなり個人差があるだろう。
    お世辞も含めての話だが、万人に通用する褒め言葉はない。
    ・・・・・と、思う。 (自分の感覚に弱気)

    私自身、あまり褒められた事がないので
    何でもとにかく言えば喜ぶ、という安直な性格だと思うだろうが
    これがなかなか気難しくて、我ながら面倒くせえ。

    でも、そんな砂漠で砂金を探すようなマネを強いるのは酷なので
    とりあえずナイスバディぐらい言っとけば良し、としている。

    このナイスバディという褒め言葉は、言われ慣れて
    既に天狗になっているので、そんなに嬉しくはない。
    だが、言われないと、「こいつデブ専か?」 と、思うので
    そうじゃなければ、儀礼的に済ませてもらいたい。

    一番嬉しくないのは 「きみといると落ち着く」 という言葉。
    実際に言われた事はほとんどないが、言われた時にゃあ
    「何、リラックスしてんだよ!
     心臓に負担が掛かるほど、ドキドキときめいてろよ!」
    と、怒って、人格を疑われたさ。

    これは男性の 「きみとなら結婚してもいい」 という
    アピールらしいので、言われて喜ぶ女性が多いらしいが
    私の場合、結婚観自体がおかしいらしいからか
    これは褒め言葉にはならない。

    “可愛い” というのも、嬉しくないどころか
    逆にムッとくる事が多い。

    外見も性格も、決して可愛い部類じゃないと自覚しているから
    そっち路線での勝負には出ていないのに
    一体どこをどう見れば、そんな感想をだける?
    ロコツなお世辞は、逆に怒りをまねくぞ。

    もひとつピクッとくるのが 「若い」 という単語。
    これを言われ始めると、もう若くはない証拠なので
    ガックリくるのである。

    年齢を当てる時に、わざと若く言うという手法もあるが
    大抵の女性は、実年齢マイナス5歳でオッケー。

    しかしな、女性は年を取るほど、マイナス5歳じゃ追っつかんのよ。
    65歳の女性が60歳に見られて嬉しいか?
    せめて50代と言え。 (もちろん、59歳というギャクは却下!)

    そんなババアの気を引く必要はないって?
    あまーーーーーーーい!
    親戚の口うるさいババアとか、彼女や嫁さんの母親とか
    年配のご婦人のご機嫌を取る場面ってのは、いくらでもあるんだよ!

    それに私のような美容マニアだった場合
    普通の同年代が喜ぶマイナス数より、更に5歳は気を遣わんと
    目の前でズーーーンと落ち込まれて
    うっとうしい事この上ないと思うぞ。

    こういう事態に陥るぐらいなら、自分に嘘を付いたがマシじゃねえ?
    悪魔に魂を売るほどじゃなし。

    何でそこまで気を遣わにゃいかんのか、と、ムカつくだろうが
    そのひとことがあるとないとでは、女性の機嫌がかなり違うのだ。

    すげえ美人で、褒められまくっているような女性でも
    褒め言葉は、やっぱり嬉しいものなんだ。
    いや、皆が褒めて当たり前だからこそ
    言わない相手の神経を疑う場合があるしな。

    褒められる事は滅多にない私なんか
    「ああ・・・、私に気を遣ってくれるなんて・・・」 と
    褒めてくれた相手を、無条件で良い人扱いだぜ。

    一瞬、錯乱した、と、自分を誤魔化してでも
    その場の雰囲気を良くするために
    女性にはなるべく褒め言葉を掛けてあげようね。

    欺瞞は夢の国へのチケット。
    大抵は往復になってるから大丈夫大丈夫、すぐ目が覚める。

  • 差別

    以前、掲示板で差別に関して発言し
    指摘を受けて、不本意な削除をした経緯がある。

    削除に対しては、気持ちは変わってないが
    自分の 「私は差別意識がある」 という言葉が事実なのか
    それ以来、漠然と考え続けている。

    考えもまとまってなく、今後も意見が変わるような気がするが
    思考の途中経過を記しておきたい。

    最近になって、改めて疑問に思い始めたのが
    “差別” “区別” “好き嫌い”
    この3つの違いと、関係は何なのか? である。
    (注: ここでは人間関係を表す時限定の話で検証する)

    これ、簡単なようで、すげえ難しいと感じる。

    この3つは、明らかに違う意味を持つ。
    でも、そこに好き嫌いが入ると、また形が変わってくる。

    まず、“差別”
    これは平等の反対語として、悪い意味で使われる。

    この “差別” から、好き嫌いを排除したら
    “区別” になるのではないか?

    というのも、私は男女差別を公言しているが
    自分が女性である事を卑下していない。
    それどころか、女性である事が、ハッピー! とすら思う。
    他の女性が嫌いで、貶めようなどとも、一切思っていない。

    面倒くせえから女性蔑視論者でいいや、という態度だが
    多分、私は男女差別じゃなく、区別をしているのだと思う。

    では、私が大嫌いだと言いまくっている、外国人と九州男児、
    彼らを私は差別しているのか?

    「迷惑を掛ける外国人は全員、自分の国に帰れ!」
    「九州男児は、友人ならいいけど彼氏にはしたくない」

    これ、差別かなあ?
    迷惑を掛けるヤツは、嫌われて当然だろう。
    これが日本人なら、どこにもやれないから 「死ね!」 になるぞ。
    追い出す方が、まだ人道的な扱いなんじゃねえの?
    (九州男児に関しては、むしろ私に恋愛対象にされなくて
     大ラッキー!!! だろ。)

    ただ、犯罪を犯さなくても
    日本女性をイエローキャブみたいに扱う外国人には、心底ムカついている。

    貞操観念が大らか (物は言いようだな) な日本女性も実際にいるし
    外国人には、東洋人の顔が判別しにくいせいもあるだろうが

     相 手 を 見 て か ら ナ ン パ を し ろ !

    同じ事を日本人男性がやっても、ムカつかないのは
    ちゃんとTPOや女性のタイプを選んでやってるからなんだよな。

    日本のためになる外国人なら大歓迎だが
    外国人の犯罪が激増しているし、どいつがそうなのか見分けが付かんし
    もう面倒くせえから鎖国でいいよ! と、思うのである。

    これは差別なんだろうか?

    差別というのは、恐怖心から起きる

    今の時点の結論はこれだ。
    自分の方が優れてて上、などと
    見下した気持ちで差別するヤツもいるだろうが
    そういうチャンガラな性格のヤツは、あらゆる面で論外だぜ。

    私も含め、多くの人々は
    「関わったらひどい目に遭う」 という恐怖心から
    その人の属する集団を避けようとする。

    問題は、「一部がそうだから全部そう」 という決め付けだろうが
    これはしょうがないと思う。

    日本人女性が、イエローキャブ扱いをされるようになったのも
    日本人の中年男性が、東南アジアで女好きの烙印を押されたのも
    日本人というのは、金さえあれば何でも手に入ると
    思い込んでいる人種だと、世界中から思われているのも
    全部、一部の海外渡航者がしでかした事が元なのだ。

    これを 「ほんの一部だから」 と、言い訳するヒマがあったら
    善良な日本人たちの態度で、日本の名誉回復を図っていく
    努力 (尻拭いとも言う) をする方が進歩的だろう。

    外国人と接する時には、祖国の誇りを背負っていると思え!!
    どいつもこいつも、“旅の恥はかき捨て” をやってんじゃねえ!

    一部で全部を嫌いになるのなら
    一部で全部を好きになるのも、また可能である。

    クズはどこの世界にでも、平等にいるものだから
    他のヤツがそれをフォローする努力が評価できたら、「好き」
    できないのなら、「嫌い、あっち行け」 の、自分基準でいいと思う。

    でも、本題の “好き嫌い” と “差別” は
    よく似ていて混同しやすいけど、明らかに別物である。
    ここらへんが、まだ謎なんだよなー。

     注: これは個人の人間関係に対しての意見で
        国家間、政策としては、また別の問題である。

  • 親子の会話

    たとえば、いじめられてる子がいる。
    その子が自殺して、親は 「まさか!」 と、驚く。
    親は何故気付かなかったのか
    話をできなかったのか、そういう意見が出る。

    もう、そっからして違うと思う。
    子供は親には話さない。
    話してくれる子だったら、親は楽だ。
    親に話さないのは、ごく自然な事なのだ。

    逆に聞くが、父親は会社の事を子供に言うか?
    母親は近所付き合いのグチを子供に言うか?
    聞かれても、当たり障りのない事しか答えないだろう?

    家族であっても、自分だけの世界がある。
    子供にも子供しか所属できない子供社会があって
    そこに他種族を介入させるヤツは、卑怯者なのだ。

    これは親子の絆うんぬんではない。
    それどころか、親思いの優しい子ほど、「心配を掛けたくない」 と
    聞かれても笑顔で平穏を装うだろう。

    では、親は子を把握できないのか?
    全部は無理だと思う。

    親の質問に対する子の答は、ある意味、真実ではない。
    切羽詰った答ほど、きれいな形に変えられる。

    子供の自尊心を甘く見てはいけない。
    子供は生まれた時から、大人と同じものをすべて持っているのだ。
    ただそれがまだまだ不完全なだけで、存在はしっかりしている。

    だったら親はどうすればいいのか?
    語れ、と提案する。
    普段の何気ない会話で、親は生きる術や信念を子に伝えるべきだ。

    TVを見てる時や家事をしてる時などの、当たり前の生活の中で
    親が何気なくつぶやいた言葉ほど、心に残っていないか?
    自分に向けられた言葉じゃないものほど、記憶に残ってないか?

    玄関に花を飾りながら、母親がひとり言を言う。
    「お客さんがドアを開けて 『いい香りだな』『キレイだな』 と
     気分が良くなってもらえると嬉しいわねえ。」

    父親が酔いどれて、ニュースを見てつぶやく。
    「人にはその人の領分というものがあるんじゃ・・・。」

    延々と説教されても、その時はきちんと聞いて反省するんだが
    その後はきれいさっぱり忘れてしまう。
    いつまでも心に残る言葉は必ず、たったひとことだった。

    親は子と義務のように話そうとしなくていい。
    心を込めてつぶやいていれば
    子はそれを自分なりに解釈して知恵にする。
    それが “親の背中を見て育つ” という事だと思う。

  • 店のサービス

    スーパーに行くと、買った商品を袋に入れる台があって
    そこに袋や輪ゴムなどが置いてある。
    自由に利用していいのだ。

    それを大量にとっていくヤツがいる。
    そういうヤツの言い分は 「自由に持って行っていいから」。

    それは違うぞ!

    あれはお客さんに便利のいいように利用してほしいという
    店側のサービスなのだ。

    サービス = 善意 なんだぞ。

    おめえは人の善意にあぐらをかくような真似をするんかよ?
    それが自分の生き方なら良いように思えるが
    そういう恩知らずが増えると
    お店側もサービスを縮小せざるを得なくなって
    お客全員が不便になるんだよ。

    皆が気持ちよく買い物をできる環境を維持しないと
    結局、自分で自分の首を絞めてるも同然だろう。

    昔 「お客様は神様です」 と、言った歌手がいて
    それが日本人の基本になってしまった。

    「俺は客だ」 と言った時点で、もうそいつは客じゃない。
    他の客にも大迷惑の、単なるインネン付け野郎だ。

    まったく、何を勘違いしてるんやら。
    お店とお客は等価取り引きをしている関係で、本来は対等なのだ。
    サービスはお店側の真心。
    真心には真心を持って接するのが、人のあるべき姿。
    お互いに気持ちよく売り買いをしようと、努力するべきだろう。

    私の場合、会話や口調で “頭の弱い人”
    もしくは “とてつもない田舎者” と誤解されるので
    (両方とも大当たりだが・・・)
    人権に基づいて、ほとんどの人は皆、親切にしてくれるが
    少々感じの悪い対応をされても
    体調でも悪いんだろう、と同情するぐらいで
    あまりにいつも感じが悪いなら、もう二度とそこに行かないだけである。

    これに異を唱えるヤツがいる。
    それはうちの兄だ。

    「注意するのが社会のためだ」 と言うこいつは
    普段は必要以上に腰の低い応対をするが
    相手が不条理な態度を取ると、途端に豹変し
    「それで良いのかね!」 と、論説を振るう。

    一体どういう思想の運動員なのか、と思わんでもないけど
    多分、兄の言い分の方が正しいような気がする。

    ただ私には、そういう確たる理論も情熱もないのが本音。
    文句のいっちょぐらいは言えるが
    それをしても、事態は好転しないような気がするし
    言って反省するようなヤツなら、最初からしないと思うのは
    “イジメを放置するヤツも加害者” ってのと同じなんかなあ。

  • ウカツに渡るな!

    信号が青だと、脇目も振らずに渡るヤツがいる。

       ドアホ!!!!!

    危ないと思わんのか?
    「横断歩道では、左右を確認して渡りましょう」 と
    小学校であれほど習っただろう?

    と言うと、「だって青だし、歩行者優先でしょ。」 と
    反論する大バカ者がほとんどである。

    ああ、そうさ。
    歩行者は交通弱者。

    歩行者 > 自転車 > バイク > 自動車
    という順序もある。

    だけど、それはあくまで法律上の事なのだ。
    過失割合が減るってだけ。
    痛い思いをして、ヘタすると後遺症とか残って
    それでも、自分の方が正しいと認められ、補償されればいいのか?

    事故に遭わないのが一番だろう?

    そもそも、信号に対する認識が間違っている。
    赤は 「止まれ」、黄色は 「注意」
    青は?

      「行ってよし」

    この言葉の真の意味をよく考えろ。
    青は 「行ってもいいよ」 だ。
    「行け」 という、強制や義務ではないんだから
    注意をしつつ行くのが当然だ。

    交差点で、信号無視の車と信号通りに走っている車がぶつかっても
    過失割合が決して、10:0 にならないのは
    動く限り、絶対に注意をしなければならない、という掟だからである。

    優先順位は確かにあるが
    「青だから」 「こっちが優先だから」 と
    ロクに注意もせずに行動するのは、歩行者に多い。

    青になったと、信号 “だけ” 確認して走り出す、
    携帯をいじりながら渡る、自転車でブレーキも掛けずに飛び出す。

    周囲が全員、法規を守ってマトモな行動を取る、と思うのが大間違い。
    よくそこまで見ず知らずの他人を信頼できるよな。

    自分が大事なら、権利より安全だろう。

  • だらしなさは凶器

    ほんのちょっとの手間を惜しんで
    いらん被害が拡大した経験って、誰にでもあると思う。

    ゴミ箱にゴミを投げ入れようとして、入らなかった
    なら、まだしも、投げたゴミがゴミ箱を倒して、ゴミが散乱。
    掃除までせにゃならなくなった、とかは定番。

    照明のヒモを、背中を向けつつ引っ張ったらヒモが切れた。
    (修理できず、新しいのを買いに行くハメに)

    足で物を取ろう、引き寄せよう、として、ツる。

    天袋に収納しようとして届かず
    脚立を持ってくるのを面倒がって、投げ入れたら
    入ってた物がすべて頭上になだれ堕ちる。

    洗い物をしていて、お湯が沸いたので
    慌てて足で火を止めようとして、ガス台を超キック。

    冷蔵庫のドアを、勢い良く蹴って閉めたら
    中の物が衝撃で倒れ、ドアが押し戻されて開き
    度重なった振動で、冷蔵物が飛び出す。

    これらは、ほとんどの人がやっていると思う。
    が、年を取っていく毎に、どんどん問題が出てくる。

    人は何かをする時に、最小限の動きで済ませようとする。
    これが腰痛持ちなんてのになったら
    手を伸ばして、取ろうとか置こうとかして
    グキッッッッッとやってしまうのだ。

    ああ・・・何であと1歩を踏み出さなかったのか・・・
    と、湿布を貼りつつ、激しく激しく後悔する。

    多分、年寄りになればなるほど
    こういう問題は、より切実になりながら増えていって
    しまいにゃ、命に関わるようになるんだろうなあ。

    足を踏み出したら、アキレス腱が切れたとか
    振り向いたら、首の骨を折ったとか。

    だから、まだ健康的に支障がない今の内に
    面倒くさがらずに、ひとつひとつの行動を
    慎重に丁寧に行うように、クセをつけた方がいい。

    ・・・・・丁寧に生きよう、と提案している端から
    否定するような事を言い出すが
    私は、1個だけザツに対処している事がある。

    落ちようとした物は、絶対に放置するのである。
    落ちるんなら落ちやがれ、ってもんだ。

    食器を洗っていたりして、つい落としてしまった時に
    受け止めようとしたら、叩き飛ばしてしまい
    それが、遥か彼方の冷蔵庫に当たって割れた。

    何をアタックしてるんだよ
    フツーに落ちた方が、食器も無事だったんじゃねえか? と。

    これだと、食器の損失と掃除だけで済んだので
    落ちかけている物を救う行為は、まだ止められない。
    落ちそうになると、反射的につい受けてしまうんだよな。

    だがある日、「あっ、落ちる!」 と、茶碗を掴んだ手が
    流しに激突し、激しく突き指するは
    爪は逆さに折れ曲がって割れるは、痛いどころの騒ぎじゃなかった。

    もし、これで骨折でもしていたら
    たかが数百円の茶碗をかばったための
    治療費やら不便さやら、ほんと割に合わねえ!!!!!
    と、気付いて、それ以来、去る物は追わずになった。

    たまに、反射してしまう事もあるし
    余裕で止められたんじゃないか? と、思う場合もあるが
    オノレの “状況による的確な判断” が
    まったくこれっぽっちも信用できないので
    とにかく 「落ちゆく物は全落とし!」 を心掛けている。

  • 苗字の意味

    人の名前と顔を覚えられない。
    これは日常生活に、とても支障があって困る。

    2年ほど前に知り合った近所の主婦がいる。
    遊びに来るし、メールのやりとりもひんぱんにしている。
    ・・・実は、彼女の名前を覚えられないのだ。

    「竹内さんだっけ? 竹田さんだっけ?」 と、わからなくなり
    携帯のアドレス帳を見ると、山中さんだった、という様に
    まったく違う、どこも1個も合ってない名前である。
    (例に出した名前は全部仮名)

    とりあえず会って話す時は、関西弁の特性を利用して
    「○○さん、朝飯何食った?」 と言うべきを
    「自分、朝飯何食った?」 と言ってしのいでいる。

    この2年間、延々とこの繰り返しで
    自分でも、何でここまで覚えられないんだ
    と、いい加減うんざりし、深く深く考察してみた。

    そうか!!!!!
    ようするに、苗字で呼び合っているのが悪いのだ!

    これは私だけの価値基準かも知れないが
    苗字というのは、ある種の記号だと思う。
    同じ苗字で、何の関係もない人も大勢いる。

    うちは、簡単だが珍しい苗字で
    簡単なだけに読み間違いをされる事が多い。

    例えば、“安藤” という苗字だったら
    “あんどう” “やすふじ” “あんとう” など
    数種類の読み方ができるだろ?

    銀行や病院などで、何と呼ばれようが
    ああ、私の事だな、と思ったら返事をし
    訂正する事もなく、そのままにしておく。
    数年来の顧客になってるブティックでも
    違う呼ばれ方をされてて放置していたぐらいである。

    割に格好いい苗字で気に入ってはいるのだが
    “私” だと認識されていれば、悪気じゃない限り
    別に何と呼ばれようが、どうでもいいのだ。

    こういう感覚だから、名前を覚えられないのかも知れんが
    それだと、顔も覚えられない理由がわからんだろ。
    てか、他人の名前は大切にしているつもりなんだよなあ。

    記号である苗字と違って
    あだ名は個性として認識しているようである。
    (自分を客観的に分析しているので
     あくまでも予想で、断言はできない。)

    “えりぴょん” とか、“ゆうちゃん” とか
    その子は 「えりぴょーん!」 って感じで
    あの子は 「ゆうちゃーん!」 って感じなのだ。

    もう、自分でも言ってる事が、何が何だかわからんのだが
    イメージ付けが明確にできるって事かなあ?

    有名人なんかも、フルネームで呼ぶだろ?
    “田中康夫” を “田中さん” と言っても
    田中裕子なんか田中角栄なんかわからん。

    ネットのIDなんか、自分で勝手に付けられるので
    とんでもないマヌケなのとか、覚えやすくていいよな。
    逆に格好いいっぽいのは、なかなか覚えられんで損だと思う。
    私はアホが好きだ。 うん。 (仲間意識もあるか?)

    :ちなみに、自分のID “あしゅら” は
    :ポトのIDを考えている時に、たまたま聴いてた曲のタイトルを
    :軽い気持ちで、パクリ付けてしまったのが由来。

    :まさか、こんなに何年も引っ張るとは思っていなく
    :しかもキャラ的に、何か合っていて (暴力的なとこが)
    :今となっては、ちょっと後悔している。

    :じゃ、何がいいんだ? っちゅうと
    :思いつく事すらできねえよ。
    :命名という高度な作業は、私には無理。

    しかし、アホと言っても、ポトなんかで
    記号や顔文字のみのIDのヤツとか、たまにいて
    「それ、何と読むんだ?」 と聞くと
    「何でも良いよ」 と、必ず言われる。
    じゃ、「鈴木さん」 と呼んでもいいんかよ?

    これ、すげえ説得力のある仮説だな!
    と、我ながら大満足をして悦に入ってたが
    よく考えると、原因だけを解明できたとしても
    覚えられん事に変わりはないのだ・・・。

    更に冷静に考えると、顔や名前だけではなく
    あらゆる事全般において、物覚えが悪い事実を思い出した。

    直に “バカ” で、ファイナルアンサーじゃねえかよ・・・。

    いや、こういう推理も努力のひとつじゃねえのか?
    だよな!
    10回で覚えられないなら、100回すりゃいいだけさ!

    ・・・しかし、2年かあ・・・。
    本人が知ったら、どんだけ傷付く事やら・・・。
    はあ・・・・・。

    ・・・ここだけの話、もっと長期間付き合いがあって
    苗字はやっと覚えたが、名前がわからんヤツもいる。
    フルネーム覚えていたはずなのに、キレイさっぱり忘れたヤツもー。

    人の名前と顔を覚えるってのは、私の人生の命題である。
    これが得意なヤツって、すげえ尊敬する。

  • 人の意見

    私はしょっちゅう、人に 「どう思う?」 と聞く。
    事ある毎に聞いている。

    この問いで欲しい答というのはない。
    ただ、その人の意見が聞きたいのである。

    この、人の意見というのは
    非常識でズレている私にとって、社会生活の生命線にも等しい。

    これから先の自分の考え方の参考になるし
    人がどう感じるかを知る事は、思いやる心に繋がる。
    そういうのが “勉強” だと思ってる。

    だから皆、私に “自分の考えを言う” という親切をしてください。

    しかし、そうやって “勉強” をしているはずなのに
    何でいつまでたっても常識が身に付かないのかがわからない。
    いや、微妙に付いてるのかもしれんが
    自分の常識への不信感が脳裏に根付いているんだろうな。

    でも、私は世界一の常識人になっても
    人に 「どう思う?」 と、問い続けるだろう。

    人の物の考え方というのは、実に面白いからだ。
    自分とは相容れない意見でも、その人の個性がとても興味深く
    宝物を見せてもらっている気分になる。

    と書いてて、これってパンツを覗き見する変態に似てるんじゃないか?
    という疑念がわいたが、違うよな?

    こういう私が相談を受けた場合、ちょっと悩む。

    私は、相談=意見を聞く なんだが、そうでない人もいる。
    賛同してほしいとか、慰めてほしい、後押ししてほしい、など
    人は “相談” という言葉に色んな意味を詰め込むからである。

    私の場合は、目的がはっきりしている場合は、それを言う。
    「慰めろ」 とか、「安心させろ」 とか
    相手が 「解決策を考えるべきなんじゃないの?」 と、言っても
    「今はそういう気分じゃねえ。 いいから私を落ち着かせろ」
    と、ゴリ押しをする。

    動揺してる時にあれこれ考えても、良い案は出ねえもん。
    とりあえず、心の平穏を取り戻すのが先決だろ。

    友人たちは、私のこういうところを
    「手間が掛かる」 と、困っているみたいだが
    慣れればオッケー! (← ?)

    こんな単純バカが 「この人はどういうつもりで相談してるんだろう」
    と、人の心理を探っても、まず99%的を外している自信があるので
    相談を受けた時には、とにかく自分の意見を言う。

    なんか、ほとんどの人は 「ただ話を聞いてほしい」 というのが
    “相談” のようなんだが、ちゃんとそれを伝えんなら
    私にはわからんし、そもそも、私に相談するって事は
    ズバズバ言われて構わんという覚悟があるんだと解釈する。
    優しくされたいなら、優しい人を選んで相談するだろ。
    私のところには、生け贄になった気分で来ーーーい!

    相談された内容は、できるだけ客観的に見る。
    ただし、それは私が得る事ができる情報の範囲である。
    知り合い同士で揉めてる場合でも
    私は相談しているヤツの情報だけで判断する。

    相談するヤツは、当然主観で説明するので
    それは事実とは違う場合もあるかもしれんし
    相談者が知らない、気付いてない事もあるかもしれん。

    真に公平に判断するには、当事者全員の話を聞くべきだが
    私は、私に話を持ってきたヤツに一生懸命になるだけだ。

    たとえば、AとBがケンカをして、Aが相談に来る。
    Aの話では、Bはひどいヤツに思えても
    それはそのケンカの場合限定で、私とBの関係には何の影響もない。

    相談に来たAの意見だけで判断して意見を言うが
    一方的な話をされたくないなら、Bも私に言いにくればいい。
    そしたら、公平に考えるだけのことだ。

    相談ってのは信頼関係なので
    私は、私を信頼して話にきてくれたヤツに必死になる。
    頼まれでもしない限り、“聞き込み捜査” はしない。

    書いていて気付いたが、ほんと目の前の事しか対応してないよな。
    しかし自分の能力では、これが精一杯じゃないかと思う。

    私が仲裁に入ると、余計にグチャグチャになるだろうし
    そもそも私に相談しても、厳しい事をビシビシ言われるので
    ある意味 “敵” みたいなもんじゃねえのか?

    てか、この “厳しい” というのは確信犯ではなく、第三者の評価。
    「よく、あんな事を言えるね」 と、言われ
    「言ったらまずい事だったんか?」 と、驚くパターンが多いので
    多分、私はきついんだろうな、と、素直に受け取っているのだ。

    でも、きつい事を言う、言われるのって、愛だと思う。
    もちろん逆切れオッケーで、それも情愛の儀式のひとつじゃねえか?

    読み返して思ったが、私に友人がいるのが不思議だよな。
    いや、どこがどうなのかはわからんのだが
    全体的な雰囲気で何となく自分への疑問がー。